第三幕 居場所

潮の入れ替わり

 年明け早々、『北京飯店』に一人の新人がやってきた。名を田上という。祐介よりも二歳年下で、高校を退学したという。色白でやや細身、角刈り頭で目は細くてつりあがっている。


 祐介は先輩なので仕事を教える立場にあるわけだが、これがはっきり言って使えない。キャベツのケン切りはゴボウの笹掻きみたい。ニンニクを包丁の腹で叩いて潰すとか、青ネギの小口切りも到底無理。餃子を包むなんてのはもってのほかである。


 ある時、祐介はチーフにこう漏らす。


「田上はぜんぜん包丁ができへんし、酒をコップに注ぐことすらできません。この前なんて僕がお客に酒を入れて、すぐに厨房へ戻ってきて仕込みにまわって、ぜんぶ僕が一人でやってました。そのくせ、あいつは客とずっとしゃべってる。相手によってはため口でごっつう偉そうな態度やし。こう言うと何ですけど、あいつは何しにここへきてるんですか」


 するとチーフの口からは思わぬ言葉が返ってきた。


「あのな片山君、仕事いうのんは出来るか出来ないかだけやないと思うねん。あの子は一所懸命やっとるよ。まぁ広い目で見たってくれへんか」


 期待していた言葉とはまったく逆で愕然としてしまった。


「なんであんなやつを雇ったったんですか。『北京飯店』には要らない。口ばっかりで実際には何一つできへんのですから」


「あの子はな、苛めが原因で学校を辞めたんや。えらいつらい思いをしたらしい。親は離婚してて血のつながってない男の人が一緒にいるみたいで。最初の頃はたまに家に来る程度やったらしいが、今ではおかあさんと同棲状態らしいわ。これがまた嫌な感じの男らしいねん。あの子は家にも学校にも自分の居場所がない。確かにこの仕事は向いてないかもしれんし、いつまで続くかわからん。けど、本人がここにいたいうちは面倒みたろうと思うとるんや」


「チーフっていつも落ちこぼれを拾い上げる役なんですね。空本もそうやったし、まぁ僕も同じようなもんか」


「中華の世界はそういうのんがけっこう多くて、兄弟弟子の店なんか少年院とか務所あがりが三、四人いてるわ」


「でも、よく考えたら空本にはちゃんと自分の意思というものがありました。僕にしてもバイクレースの資金稼ぎというのがある。でも、田上には自分がない。チーフにただただ甘えているだけにしか見えませんけど」

 

「そんな一六歳や一七歳で自分をもってる子なんて少ないで。片山君らは特別や。五人組のいい仲間もおる。でも、田上君は友達もおらへん。せやからしばらくうちで預かって、なんか道が見えてきたらええなと思って。ま、わしかて中卒で最初に就いた仕事は中華料理やのうて電気工事やったんやから」


「はぁ、そんなこと初めて聞きました」


「兄貴の紹介でたまたま勤めたんや。もちろん好きとか夢とかやのうて、ただ生きていくためだけ。それで少し経った頃、神戸の中華料理店へ勤めにでていた先輩から誘われたんや。そんな仕事してたら一生会社人間で終わる。料理の道へ進めば、いつか独立して自分の城をかまえることができるぞ、ってな。で、十八歳でほんまに転職した。その後、先輩はほんまに独立して、わしも自分の城をかまえることができたというわけや。まぁこんなおんぼろの店やけど」


「中華屋になってよかったと思ってますか。それが自分に向いた仕事だと」


「まぁな。料理は嫌いやないし、店を持てるまでになれたということは、向いてないわけではないんやろうな。でも、これが自分の夢とかそういうんじゃない。あくまで自分が生きていくための手段。人生そんなに焦らんでもなんとかなる、っちゅうこっちゃ」


 しかし、当時の祐介にはそんな「なんくるないさ」的な話はとても考えられなかった。一刻も早く、自分に合った道で大成功をおさめなければならない、と常にがむしゃらで生きていた。


「それにしても田上はどうにもならんやつやと思います。あれではどこへ行っても苛められる気がします」


「そうやな確かに。だからこそ見捨てるわけにはいかん。あのままやとあの子は潰れる。自分の居場所がないことほどつらいことはあらへん。自分が学校から帰ってきたら、お母さんが毎晩のように父親以外の男とエッチしてるらしいで」


「それは確かにつらいですね。そんな家とっとと出たらええのに」


 こうして田上にわずかだけ同情心が生まれた祐介だったが、その後も現実は、田上の御守りをし続ける毎日で、耐えがたい状態が続いた。


 やがて田上は、昼夜通しで入るようになり、それと入れ替わるようにして祐介の就労時間が、平日の夜だけ、週三日程度などと少しずつ減少していった。


 田上に比べて自分はまだ幸せなのだと言い聞かせながらも、自分の居場所を取られたようで嫉妬心もでてくるし、チーフに対しても期待がもてなくなっていくなど、祐介は実に複雑な心境へとなっていく。


 そして、ついに祐介は二月に入ったところで『北京飯店』を辞めた。


 よく考えてみれば潮時でもあった。前々から行きたかった自動車教習所へもようやく行くことができて、無事に普通免許を取得することができた。高校生活にやり残したことはない。三月の中頃、晴れて高校を卒業する。


 昼下がり、『北京飯店』へ挨拶に行く。


「何とか卒業することができました。いろいろとありがとうございます」


「おぅ、おめでとう。ほんまに卒業できてよかったな。新しい仕事も頑張りや」


「あれ、ところで田上はどうですか。今日は休み」


「いやな、それがある日突然来んようになってしもたんや」


「やっぱりね。あいつはずっと誰かにかまってちょうだいでキリがないんですよ」


「あまりにも何度もすっぽかすもんやから、嫁はんがえらい怒ってしもて。その辺りからすっぽかすことが増えた。ま、でも元気でやってくれてたらそれでええんねんけどな。自棄を起こさんかそれが心配や。あのまま居場所がなくなったら行く先はもう限られてまう。仕事だけは何とかせんと」


「仕事なんかすぐ見つかりますよ」


「いや、あの子は無理やろ。ほら、あの仏頂面やえ。みんなから敬遠されるのが落ちや」


「それにしてもチーフが大変ですね。一人じゃ店を回し切れへん」


 店の売り上げは忙しい日で一日十万円ほどもあった。昼は近所の工場勤めのお客などが四〇~五〇人は来店していたし、夜は夜で客単価三〇〇〇円を超えることもしばしばである。


「細かい出前は行かれへんけど、とりあえず嫁はんが来てくれてるからなんとかなっとる」


「あれ、この間、小野原センター街にうどん屋出すようなこと言ってませんでしたっけ。社長はそっちいかなあかんのでしょ」


「そうや、もう四月からはじめるで。そうなったら嫁はんがうどん屋担当になる。そろそろこっちを何とかせなあかんなぁ」


 小野原センター街とは今年になって新しくできた商店街のことで、空本が勤めるバイクショップもそちらへ移転した。テナントはせいぜい二〇軒ほどの小規模なものだが、この辺りでまとまった商店街は初めてのことで、町の人々から注目を集めている場所だった。


 その一角に、一杯三〇〇円以下の安もんのうどん屋を出すというのである。当時の大阪には、歯応えがなく細めのうどんと、ややぬるめで甘めの出汁が特徴の安もんうどん屋が、どんな町にも溢れるようにあったのだ。


 今回はそれに加えて、社長の得意な季節ご飯や小料理も出すとのこと。さらに今の店から歩いて五分という近さも好都合だった。運転免許を持っていない社長にうってつけの場所である。


「片山君はいつから仕事が始まるんや」


「四月一日からです。ほんまに憂欝ですわ。とりあえず母親を安心させるために入ったようなもんで。いったいいつまで続けられることやら」


「それでええねん。将来のことなんてどうなるか誰にもわからん。前にスナック・ワラカスのマスターが言うてたやろ。とにかく一つ一つをやり遂げろって。無事に高校を卒業したことは立派なこっちゃ。ちゃんとやり切ったんやから」 


「ほんじゃ田上はどないもならんやつ、ということになりますね」


「田上君のことはもうええて」


 そこに勝手口から社長が入ってきた。まだ午後三時過ぎというのに両手に大きな鍋をもっている。


「あ、片山君。卒業おめでとう。おかあさん元気」


「あ、元気です。社長、新しい店もせなあかんのに大変ですね」


「そうやねん。わたしに店が務まるか不安で。たまには手伝いに来てな」


「片山君は今までほんまにようやってくれた。おつかれさん。これからが本番や。せいぜいおきばり」 


 社長が大きな鍋の蓋を開けて、菜箸でちょんちょんと何かを摘まんでいる。


「あ、片山君、おでん食べてかえり」


 久しぶりに社長のおでん食べて、祐介の高校三年間は終わった。

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