年上女性に壊れる

 怖い社長を本気で怒らせてしまった。


 社長とはチーフの奥さんであるが、チーフよりも身長は低いのに、いつも背筋をピンとして堂々としているのでチーフよりもはるかに大きく見える。夜九時頃になると、自宅で仕込んだおでんや肉じゃが、魚の煮つけや雑魚の佃煮、時にシチューなどをいれた直系五〇センチほどの大きな鍋を両手に抱え、約一〇〇メートルの道のりを歩いて店にやってくるのだ。


 これは主に常連客向けの肴である。柳河原はもとより、その後輩たち数名。ほか大手運送会社のトラックドライバー、九州や四国など遠方から定期的にやってくる長距離運転手、上場企業の偉いさんなど。常連客の多くが、社長の肴でまず一杯ひっかけてから、中華料理を注文するという流れになっていた。


 社長は店に来て祐介と顔を合わせるたび「おつかれさん」「お母さんは元気」などと必ず一言あるのだが、ここ二、三日間は目も合せてくれない。いったい何があったのか。それは、祐介が目も当てられないほどのアホなことをしでかしてしまったからである。


 あれは五日前のある寒い夜のこと。


 チーフの姪の由香が『北京飯店』に遊びにやってきた。出身はチーフと同じ淡路島。島内に本社を置くウズシオ観光のバスガイドをしている。歳は二四歳。一七〇センチ近くある長身で、足もすらりと長い。由香が来るときはだいたい仕事帰りで、きゅっとまとめた髪型と、白いシャツに濃紺色のベストとスラックスといった制服姿が実に格好いい。あの魔境のトイレを怯むことなく使いこなし、酔っ払い客の突っ込みも軽々とかわす。それでいて、髪をほどく時のしぐさは色っぽすぎてくらくらとしてしまう。


 二十代という年代は高校三年の祐介からすればもっとも未知で興味深い年齢で、由香からたまに声を掛けられるだけで祐介は制御不能のドキドキに襲われるのであった。


 由香は遊びに来ると、普段はチーフのマンションに泊まっている。が、その日は翌日の出勤が朝早いらしく、どうしても帰らなければならないという。そこでチーフがあることを思いつく。この一言がすべての始まりだった。


「片山君、悪いねんけど由香を寮まで送てやってくれへんか。こいつの寮は大阪空港近くにあって、たぶんここから二〇分ほどやわ。もう十時過ぎやし、片山君はそのまま帰ってええよ。ほな、気をつけてな」


 心臓が飛び出そうになった。由香を乗せて走ることができるなんて夢にも思わなかった。


 いつもは〇時頃まで働くのだが、この日は夜十時過ぎに店を上がった。勝手口を出ようとすると、すぐ後ろから由香が長い紐のバッグを肩にかけながらついてくる。由香が自分のそばに近づいてくる。もうそれだけでどうにかなりそうだ。


 愛車のホンダCBX400にまたがっただけで、頭の中はとりとめのない想像が暴走するのであった。どんな感触なんだろう。太ももは、腕は、そして胸は。身体は重たいのだろうか。ぎゅっと抱きついてくれるだろうか。なんとか自分に興味を持ってくれないだろうか。いや、もしかしたら俺のことけっこう好きだったりして。


 鍵をキーボックスに指す手が震える。

 ブルルン、ブルン、ブルン、ブルル~ン。

 自分を隠すかのようにアクセルを執拗に回す。手でタンデム(二人乗り)用のステップを出し、ハンドルを握ってシートにまたがり「さ、どうぞ」。喉がカラカラだ。


 由香はバッグを肩にかけなおし、祐介の肩を両手で掴んでぐいっとまたがった。そして肩にあった手がゆっくりと祐介の脇腹に降りてきて、その後ベルトをぎゅっと掴んだ。この感じは、バイクの後ろに乗るのはどうやら初めてでないような。


「あ、あ、危ないんでしっかりと掴まってください、危ないから…」


 そう言うと、由香はすっと祐介のお腹に抱きつくように両腕を回し、この瞬間、二人は完全に密着した。


 鼓動はすでにレッドゾーンとなり、チーフの言葉が遠くに聞こえた。

「片山君、悪いな。ほな」


 バイクはゲートが上がった競走馬のように勢いよくスタートした。

 ブォンブォン、ブォ―――ン、ブィブブ、ブィィ―――ンッ。


 ドキドキは青天井。もっとぎゅっとして欲しい。


 脈拍の上昇と比例して祐介のバイク捌きも激しさを増していく。派手にアクセルを開けたかと思うと、急ブレーキをかけ、片側二車線の直線をわざとバイクを傾けて隣の車線に移動してみたり。いちびり(関西弁で格好つけの意味)の骨頂である。


 ただし、想像していたより胸のふんわり感が少なめに思えた。身体全体が硬い、というか筋肉質で重量感があるのだ。自分が付き合っている彼女の場合は、もっと胸が分厚くて弾力があり、太ももも胴体も腕もすべてがふわりとしていて、体重はもっと軽い。由香のがっちり体感はかえって新鮮に感じられ、つくづくたくましくて力強いところがさらに未知の魅力へと加算されていくのであった。


 イナイチを西へ進み、箕面を超え、豊中市内を目前とした交差点で信号待ちとなった。


「この次の次の信号を左に曲がったところでいいからっ」

 交差点を照らす赤信号の灯がとても切なく感じた。


 青に変わり、あっという間にバイクは豊中寮の正面玄関に到着した。

 由香はさっとバイクを降り、ヘルメットを取って祐介に渡す。


「は~い、助かったよ、ありがとね」


 祐介はエンジンを切り、思わずこう言った。

「少し時間ないですか」


「ん、もう帰るよ、門限があるから」


「う~んと少しだけ…」


「あかんって。十一時までにお風呂に入らないと。時間がきっちりと決まってるから」


 時刻は十時半を回っていた。


「…うん、わかった」


「じゃあねっ」


 慌てた様子の由香は、二、三歩足を踏み出したところで振り返り、軽く手を振り、再び背中を向けて入口へと駆けて行った。


 キュルルル、ブォンブォン、ブォブォブォオ―――ン。

 CBXは寮の横の片側一車線の緩やかな坂道を登っていく。二〇〇メートルほど先の大阪中央環状線へ向かう。が、五〇メートルほど走ったところで、祐介の脳内に由香がこちらを見て手を振った時の笑顔が鮮明にフラッシュバック。


「あかん、もっと一緒にいたい」


 急ブレーキをかけバイクをUターンして再び玄関へ向かおうとした。が、入口は当然鍵が閉まっているはず。どうしよう、と思った瞬間に、暗い道を照らし出す一室の灯りが目に入った。それは寮の二階のようである。


 バイクを歩道に停め、どこか入っていける場所はないかと辺りをきょろきょろと見渡す。が、どこにもない。


 仕方なく目の前のブロック塀をよじ登る。そして寮の壁に手を当てながら塀の上を恐る恐る横歩きして、その灯りがついている部屋へ近づく。すると窓の向こうから女性の話し声がかすかに聞こえてきた。


「あの声はもしかして…」


 そっと窓に手をやり、十センチほど開けた。すると位置が高いため中は見えないが、おそらく女性風呂の脱衣場のようであった。完全にアホになった祐介は向こうの誰かに向かって声をかける。


「あ、あのぅ、すみませんっ。あ、怪しいもんじゃありませんっ。篠田由香さんいますか。僕はさっき送ってきた片山といいます」


 とその瞬間、暗い路地一帯に二、三人の女性の叫び声が響いた。


 ぎゃぁっあああああ―――――っ。


「えっ、いや、その、違うんです、僕は由香さんのおじさんの、ええっと中華屋のもんなんです。今バイクで送ってきて、その、もう少し話したいと思って」


 するとすりガラス越しに横から誰かの手がすっと見えて、バタッーンと窓を閉めてすぐさまロック。空気を切るようなその鋭い音を聞いて祐介は正気を取り戻した。


「しまった、俺はもしかしてかなりまずいことをやってしまったんじゃないか。まさか痴漢に思われたかも」


 慌ててブロック塀を飛び降りた。頭の中が激しくぐるぐると回っている。

 どうしたものか、もう一度正面玄関に行って自分の素性を伝えるべきか、いや門限でもう完全に消灯されてしまっている。明日あらためて顔を出して謝るか。由香はどんな顔をするだろうか、きっと怒るに違いない。でも、それしかない。


 祐介はバイクにまたがり帰路につく。片側三車線の大阪中央環状線を走りながら、とてつもない後悔と絶望感に苛んだ。なんてことをしてしまったのか。もう取り返しはつかない。


 翌日は夕方五時からの入りだったが、昼過ぎに『北京飯店』へ行って、チーフにすべてを打ち明ける。寮まで無事に送り届けたこと。だが、どうしてももっと一緒にいたくて衝動的に壁を登ってしまったこと。窓を開ければ向こうがおそらく風呂の脱衣場だったこと。痴漢に思われたのではないか、ということ。そしてなにより姪の由香に嫌われたかもしれないことなど。するとチーフから耳を疑う言葉が返ってきた。


「ようブロック塀登ったな。若いな、片山君。あいつ、なかなかええ女やろ。職場でも運転手から告白されたり、けっこうもててるみたいやで。そうか、片山君も惚れてしもたか」


 ロンピーを吹かしながらにたぁっと微笑むチーフ。


「お、そういえば以前、空本君がちょっかいだしたことがあったんとちゃうかな。あの子はほんま手が早いから」


「えっ、なんですか、それ」


「ふふふふ…。それはそうと、あいつ、片山君のことなんて言うてんの」


「なんも言われてません。僕が一方的に気になってるだけのような。でも、由香さんもけっこう俺のこと好きなんちゃうかなって思ってみたり。しかし、空本が以前に。そうでしたか」


「へへへ。ま、男と女のことやから。そんなに気にせんでええんとちゃうかな。別に片山君は痴漢しようと思って窓を開けたわけやないし」


「痴漢なんて僕そんな趣味ないです。ただ由香さんが」


「だから片山君はまじめすぎやねん。若いねんからそれくらいでかまへんねん。もっと積極的でもええくらいや。まぁ塀を登って窓を開けたらそこが脱衣場やったんはちょっとまずかったけどな。わっはっはっはっはっ」


 さすが、伊達にエロ男をやっているわけではないチーフであった。気持ちがひとまず落ち着いた。


 夕方の五時。なんとなく重たい気持ちのまま就労時間となり、黒電話が鳴った。

 チリリン、チリリリリン。チーフが受話器を取る。


「はーい、北京飯店ですっ。あ、はい。うん、うん」


 この受け答え方はおそらく社長だ。話が長く、チーフのテンションがいつもと違う。二、三分してようやく電話を切り、厨房へ戻ってきたチーフは勝手口にもたれてロンピーに火をつけた。祐介がニンニクの皮むきながら尋ねる。


「なんかあったんですか」


「ふぅ――。さっきな寮の職員から嫁はんとこに電話が入ったんやって。それで、昨夜お宅にお勤めの若い男が当施設の敷地に無断に入り込み、風呂場を覗き、女性二人が被害に遭ったので警察に届ける、なんて言ってるらしいねん」


「ええっ、マジですか。うわぁ」


「でも片山君、のぞき見しようと思ってよじ登ったんとちゃうやろ」


「もちろんです、由香さんと話したくて。それで」


「今晩、わしから由香にちょっと電話してみるわ」


 夜九時頃、お客の足が途絶えた隙を見て、チーフが電話のダイヤルを回した。

 有線から「イケナイ・ルージュマジック」(忌野清志郎)が流れる。


 祐介がまかないのラーメンとチャーハンを作り、客席へ周りテーブルに置いた。ちょうどチーフが電話を終えるところだった。


「ふんふん、はい、わかった。言っとくから。はい、おやすみぃ」


 いつもと変わらぬ表情で、レンゲをもってラーメンのスープをすすり、もやしと麺をたぐうチーフ。チュル、ズルッ、ズルー。


「お、ええ茹で加減やな。スープもええ感じや」


 祐介の箸が進まない。


「あのぅ、由香さんなんて言うてましたか」


「おぅ、警察には届けないようにと由香の方から職員に言うとくって。痴漢のつもりで窓を開けたんとちゃうってことはわかってる、ってよ。あいつがそう言うんやからもう大丈夫や。セーフやったな。ズルズルッ、ズルー」


「ほんまにすんません!」


「ところで片山君は由香のどこがええと思ったんや。空本君は貞操観念が低いだけやけど、片山君はそんな違うやろ。やっぱり年上女に興味を持ったか」


「まさにそれです」


「そやねん、男は必ず一度は年上の女に憧れるもんや。特に男兄弟で育ったやつはそうなるみたいやで。ズルッ、ツルツルー」


 祐介の箸がようやく麺を掴む。


「ズルズル。うちも男兄弟で、中学時代は僕の顔見るたびに殴ってました。母親が警察を呼んだこともあります。こいつが姉ちゃんやったらどんなにええことやろ、てずっと思ってました」


「その辺わしなんかは兄貴と姉が二人ずつおったから、まだましやったわ。ま、その分年下の女もええなと思ってたけど。ズルッ、ツルツルー」


「でもね、浅賀のところも男兄弟二人ですけど、一度も喧嘩したことないらしんです。やっぱり変わった兄弟でしょ」


「あそこは喧嘩したら即刻パトカーが何台もくるで。弟が賢くなったんは兄貴が凶暴過ぎたからやろ。ズルッ、ツルツルー」


「ほんまですね。ズルッズルッ」


「でも片山君、女っちゅうもんは同い年でも歳上面しよるから結局は関係ないで。うちの嫁はん見てみいな。あれ、わしと同い歳やで、信じられへんやろ。最初はかわい子ぶったり弱く見せたりしよるねん。でも、ほんまは気が強い強い。うちの娘でもまだ小学生やのにそんな気配を覗かせるときがあるから、やっぱ女っちゅうもんはみんなそうなっとるんやろな。ズルッ、ズズズ―――」


「へぇ、僕の彼女一歳年下ですけど。あいつももしかしたらどこかで豹変するんかな」


「するで、間違いない。女は本気で怒らしたらあかん。なんとか穏便にまとめていかないと、チュル、チュルルルル」


「由香さんも怒ってるんかな」


「あぁごっつぉさん。あ、そうや、言うの忘れてた。すごく迷惑してるからもう会わない、って言ってたわ。まぁええんちゃう」


 ガラスが割れ落ちるように全身の血の気が引き、目を伏せてしまった祐介。


「なんや、そんな落ち込まんでええって片山君、ほんまナイーブやな。女ってそんなもんやで。ある線を越えたら途端に冷たくなる。ま、せいぜい彼女を怒らさんようにすることやな」


 この日、社長はいつものように酒の肴を持って店には来なかった。そして翌日も。


 社長はなんでもきっちりと白黒つけるタイプの人で、特に男女関係についてはとても潔癖主義である。社長が怒っていることは明白であった。


 さらに翌日の夜九時頃、久しぶりに社長が店にやってきた。が、祐介の顔を見ることはない。あまりの緊迫感に祐介は逃げるように客席へまわり、お客の様子を伺ったり、冷蔵庫の中をチェックしたりしていた。社長は無言のまま、鍋の中身を小皿に取り分け、ラップをかける。その間わずか十分ほど。すると客席と厨房をつなぐ暗く細い通路から、ちらっと顔を出し、視線を落としたまま手招きする。


 恐る恐るついていくと、社長は勝手口を出たところで腰に手を回して立ち、イナイチに目を向けている。祐介も外に出ようと勝手口に足をかけたその瞬間、いきなり社長がこちらに振り返り、妖怪人間ベラが変身した時のような形相でこう声を上げた。


「あのねっ、あなたいい加減にしなさいよっ。いったいどういうつもりなのっ。敷地に勝手に入って、塀の上によじ登ったていうやない。風呂場を覗くなんて頭がどうかしてるんとちゃうかっ。そんなつもりがなかったにしても、由香ちゃんに近づこうと思うこと自体が狂ってる。どうせエッチしたいだけでしょっ。あの人の姪やで。親戚よっ。どうかしてるわっ。汚らわしいっ。片山君、あなたね、彼女がいるでしょっ。なんで由香ちゃんに手を出そうとするのよ。頭がおかしいんじゃないのっ。彼女が知ったらどう思うと思う。今度やったら即刻辞めてもらいますから。ほんまに汚いっ。もう二度と私と口きかないでっ」


 そう怒声をあげて、社長は車が行き交うイナイチの歩道へと消えていった。


 マッハのスピードで、剃刀のように、なおかつ完璧な理論で、もう二度と立ち上がれそうにないほど殺傷能力のある言葉の連射だった。


 祐介はその場で数秒立ちすくみ、がっくりと肩を落として厨房へ戻った。チーフは何事もなかったかのように、いつも通り仕事をこなしている。


 結局、社長はこの時から一ヶ月間に及び、祐介に挨拶がないどころか顔すら見せることがなかった。


 高校三年の晩秋、自分に戸惑う日々である。

 

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