猫と共に畑へダイブ

 実は祐介は十八歳になる前からたまに車を運転していた。もちろん無免許運転だ。浅賀の兄である洋一君の車を港や万博公園の駐車場など広い場所で運転させてもらう程度のものだが、何度か公道を走ったこともあった。


 そして調子に乗って、チーフが所有する『北京飯店』出前専用の軽自動車を勝手に乗ったこともある。さすがに出前のために乗ることはないが、皿下げの際に何度か。


 もちろんチーフがそれを容認するわけがない。チーフがバイクで買い出しに行っている間とか、ちょっとした隙をみて乗ってしまうのである。


 車の運転に慣れてきた十一月下旬、ある日の午後のこと。


 チーフがトイレに入った隙を見て祐介は車の鍵を手に取った。鍵は小物を置く棚の上に置かれていて、いつだって自由に持ち出せるのだ。車はホンダN三六〇というカナブンみたいな可愛い形をしたもの。後部座席は常に倒したままで、プラスティックの番重やアルミの大きなバットなどが積まれており、テイクアウトの折り箱や割り箸など店の備品が入っている。


 祐介にとって、車の運転はバイクとはまた違う楽しさを感じるものだった。特に楽しいのがギアチェンジである。一九八〇年代はまだ、殆どの車がオートマティックではなくマニュアルミッション。運転席の左側にギアシフトレバーがついていて、左足でクラッチペダルを踏みながら、アクセルを開けつつ、同時に左足のペダルを離していくのだ。そしてスピードを上げるほどにギヤを上げていく。そのテクニカルな部分と、小さな部屋を自由自在に動かせるのが面白くてしかたがない。


 ただ、常に交通量が多いうえに、トレーラークラスの大きなトラックが数多く走っているイナイチはやっぱり緊張する。本線を急いで走る車に突っ込まれないように、上手に合流していかなければならない。


 エンストすることなく、ちゃんとスタートできるかが最初の緊張ポイントだ。執拗にエンジンを吹かしながらクラッチをつなぎ、一気にイナイチへ入る。ブルンブルン、ブンブンブイッ~~~ン。


 そして車線に入ることができたら、一速ギアのまま思いっきりペダルを踏み込み、エンジンを唸らせながら再び左足でクラッチを切り、二速、三速へとシフトアップしていく。ブィンッ、ブィンッ、ブワ―――ン。


 しばらく進んで交差点の手前でウィンカーを出し、ブレーキを踏みながらクラッチも踏んで、ギアを三速二速へと落としていきハンドルを切る。ブレーキが甘いとスピードオーバーで時々タイヤがキュルキュルと鳴る。


 この後、民家の間の細い路地に入り、すぐに田畑の脇のカーブが続く道に出る。左ペダルの右ペダル、左シフトの右ハンドル。左右両手両足が忙しく動きまくりのノリノリだ。


 今日はちょっと肌寒い。最近、店に居ついている子猫を膝の上に載せて、たまに片手で撫ぜながらのドライブである。


 目的地の団地に到着。階段を駆けあがり、皿を回収し、後部座席の番重の中に入れ、再びエンジン始動。さて店へ戻ろうと走り出し、しばらくいったところで、ふといつもと違う路地を通ってみたくなった。


 バイクではしょっちゅう通っている道で、S字カーブがいくつも続く細道があるのだ。途中いくつかの長屋や工場があるが、基本的には田畑の合間の快適な道である。


 そちらへ入っていくとやっぱり気持ちのいい道であった。そして、右へ左へ、ギアを上げて下げてと絶好調でハンドルを切っていたら、いきなり鉄工所から何か大きな物音が聞こえた。グァッキ―――ン。


 と、同時に祐介の太ももの上にくるまっていた子猫が驚いて、そのまま太ももの内側に思いっきり爪を立ててズレ落ちたのだった。


ぎゃぁぁぁあああ、いたったたたたっ。


 目が覚めるような激痛が股間に走ったその瞬間、思わずハンドルを切り誤り、なんとノーブレーキでまっすぐ畑へダイブ。


 そこは道路から一メートルほど低くなっていて、地面が軟らかだったからそれほど衝撃はなかったものの、子猫は絶叫しながらパニック状態で車の中を飛び跳ねている。


 車は丸ごと畑の中に着地。たまたま作物が植わっていない平地で、やや車が傾いているだけで何とか出れそうな気がした。が、バックギアを入れても何をしても祐介のテクニックでは抜け出すことが出来ない。するとすぐに鉄工所の男たちが出てきた。


「おい、大丈夫かっ。何でこんなところに落ちたんや。真正面からいっとるやないか」


 グレイの帽子をかぶったおじさんが心配そうに車を覗き込んだ。


「いやっ、あのっ、ね、猫が」


 祐介は慌ててしまって言葉にならない。


「あれ、そこの中華屋さんとちゃうんか。料理がひっくりかえっとんのとちゃうか」


「おっちゃん、すんませんけどちょっと電話を貸してもらえますか」


 当時は携帯電話なんて便利なものはない。工場の中へ入っていって黒電話をお借りする。固唾を呑みながら電話のコールに耳を澄ますと、チーフがいつものように勢いよく声を放った。


「はいっ、北京飯店ですっ」


「あっ、チーフ、ごめんなさい。いま、僕、車で畑に突っ込んでしまって。子猫を膝に載せてて、ぎゃーって股間を引っかいて、痛くてうわーってなって、そのまま突っ込んでしまったんです」


「なんやとっ、また車に乗ったんかい。なんでパッソル(バイクの名前)を使わんのやっ。ほんまにしょうがないヤツやな。で、怪我はないのか」


「ええ、怪我はないんですけど、畑の中のふくらみに車の底が当たってしまってて、どうにもならないんです。作物に被害はないと思うんですけど。今○○鉄工所と言うところの電話を借りてます。す、すんませんっ」


「あほっ、今すぐそっちへ行くから」


 情けなくて、泣きそうになりながら電話を切った。


 この後、チーフはパッソルに乗ってすぐに駆けつけてくれた。そして鉄工所の総勢五、六人の男たちの手を借り、車を道路まで引き上げてもらうことに成功する。見るとバンパーがへこんでいるだけで機能的には問題がなさそうだった。


「えらいすんませんっ。ほんまに助かりました」


 チーフが頭を下げ、祐介もぺこり。


「車はわしが運転して帰るから、片山君はパッソルで戻れ。勝手口の鍵いつものところに置いてるから」


 祐介はパッソルにまたがりヘルメットをかぶる。ふと子猫はどこに行ったかと思い出し周囲を見渡す。が、どこにも見あたらない。落ち着いて暮らせそうもないことを悟って逃げたようだ。


 運転に自信があったはずの祐介は、一気に興醒めてしまった。単純でアホな自分につくづく愛想が尽きる。

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