自分は違う、自分はもっと

 ある日曜の午後のこと。


 パチンコ部長の柳河原から店に電話が入った。


「おぅ、俺だよ、俺、柳河原だよ。ちょっと出前を頼みたいんだけど」


 毎晩のように来店している人だけに、最初電話の声が誰なのかわからず祐介は戸惑った。


「え、嘘でしょ、なんで。あ、もしかしたら身体を悪くされたとか」


「いちいちうるさいやつだな。俺だって出前を頼むこともあるんだよ。焼きそばと餃子一人前もってきてくれ」


「はぁ、わかりました。すぐお持ちします」


「いやいや、すぐでなくていいんだ。三時頃に頼むよ。それで必ず電話いれてほしいんだ。出るときに電話だぞ。わかったか、電話」


「へぇへぇわかりました。電話すればいいんですね。おおきに」


 時刻は昼を過ぎていた。


「電話しろだの、三時だのってやっぱり常連客は面倒くさいなぁ。そもそも俺は三時から休憩やっちゅうねん」


 柳河原からのまさかの電話をチーフに伝える。


「お、確かに珍しいけど、今まで何度か行ったことあるで。あの人は社宅に住んでて確か安威川の向こう側やったわ。時間が休憩時間に差し掛かって悪いけど行ってあげて」


 いつもと同じようにルーティーンの仕事をこなす。土日は、平日のように行列ができるほどのことはないまでも、午後一時を過ぎてもだらだらと客足が途切れることがなく、常に半分以上の席が埋まっている。


 やがて時間が経ち、ようやく落ち着きを取り戻した頃、チーフが柳河原の注文に取り掛かった。祐介は釣銭とメモと、あらかじめ出前用のファミリーバイク(原付スクーター)「ヤマハ・パッソル」のエンジンをかけておく。当時の原付バイクにセルモーターなんてものはなく、すべてキックスターター式である。このキックスターター式はそう簡単にエンジンがかからない。夏はまだましだが、寒くなってくると、酷いときは三分キックし続けてもかからない。一度エンジンをかけるのに秋でも汗だくになるなんてことは日常茶飯事だ。チョウクレバーを開いて、しばらく暖機運転するのも必須だった。


「ブゥィ~ンブァンブァンッ」


 エンジンをかけたまま(当時はエンジンをかけたままバイクから離れることができた)店の中へ戻り、料理にラップをしてアルミ製の岡持ち(出前用のケース)に収納してパッソルの足元に載せる。パッソルは足元に物を載せられる唯一のファミリーバイクであった。祐介は大きく足を開き、岡持を挟み込むようにしてまたがる。


「片山君っ、飛ばしたらアカンでぇ、気をつけてな」


「はい、わかってますって」


 イナイチを右に出て、インターチェンジ方向へ走る。交番前を通り過ぎ、ラブホテル街の路地を左折し、突き当たりの堤防を左折。すぐに小さな橋を渡って安威川を越え、次は右折。バイクの運転には自信を持っていた祐介。岡持ちの門をガリガリと地面に時折擦りながら猛スピードで駆けて行く。


 路地を曲がると、そこに柳河原が暮らす社宅があった。元々が赤茶色なのか積年の劣化なのか、四、五棟ある建物は色褪せており、日曜の昼間というのに子供の声も聞こえてこない。通路もなんだか薄暗い。聞いていた棟を探しだし、岡持ちを持って足早に郵便受けを確認する。


「あったあった柳河原さんの名前や。そうか、普段は賑やかなパチンコ部長はこんな地味なところに住んでいたのか」


 部屋の前に到着し、インターホンを押すがどうやら壊れているようである。


「コンッコンッ。コンッコンッ」


 やや強めにノックし、その直後にノブをひねると鍵が開いていた。


「ガチャッ。あ、柳河原さ~ん。北京飯店ですっ。片山で~す」


 中を覗くと手前が四畳半くらいの台所で、奥にもう一部屋あり、そこに頭がつるっぱげのランニングシャツ姿の誰かが向こうをむいて胡坐をかいていた。


「あれれ、部屋を間違えたか」と思ったその瞬間に「こらぁっー、電話しろっていっただろっ、はよぅ閉めぇ」と大きな声が飛び、驚いた祐介は咄嗟にドアを閉め、しばし息が止まったまま立ち尽くす。


 そのコンマ五秒ほどの瞬間に、確かに見た。ランニングシャツ姿その人が、たたいて・かぶって・ジャンケンポンのように、お鉢のようなものを慌てて頭にはめこんだのを。その直後、全身からゆっくりと血の気が下がっていくのがわかった。

「まさか…柳河原さん、ヅラ」


 とても長い沈黙に感じた。数秒が経ち、扉が開いた。ランニングシャツ姿で微妙にずれた髪型の柳河原が内側のノブを持ったまま、焼きそばを見つめてこう口を開く。


「おぅ、なんであんだけ電話しろって言ったのにしなかったんだよ」


 そう言って不機嫌そうに焼きそばと餃子を掴みとる。


「す、すみません。いつもの調子で出てしもたんで、ついうっかり。ほんまにすんません」


 柳河原はその後何も言わずにお金を手渡し、祐介は気まずい感じでお釣りを渡す。


 ガッチャン。重たい鉄の扉が遮った。


 うなだれるようにして祐介はパッソルにまたがる。


「そうか、柳河原さんはヅラやったんや。生まれて初めてヅラの人を見た気がする」


 行きとは違い、ゆっくりとパッソルを走せ、裏道から抜けていく。そしてイナイチの赤信号を待つ間、思わず柳河原の私生活についてあれこれと想像するのであった。


「柳河原さんはいつも夕方五時半にこの道を通ってパチンコ屋へ行くんやろか。それとも勤め先の工場から直接向かうんかな。岡山と広島の県境あたりの出身とかって言ってたけど、家族はいるんかな。兄弟はどうやろう。学生時分はどんな子やったのか。いつからハゲてしもたのか。なんでこんな町のピストン工場なんて勤めてんのやろ。仕事とパチンコと北京飯店を行き来するだけの毎日なんて俺には考えられへん。結婚もせんとあんな薄暗い時間が止まったような家に暮らすのも耐えられん。いったい何が楽しみで生きてんのやろ」


 祐介はそれまで、自分こそが恵まれない環境で育ち、五人の仲間以外の同級生のことを平和ボケと見下し、誰よりも成功しなきゃならないとずっと思ってきたが、柳河原の私生活を垣間見て頭の中が真っ白になってしまった。


「柳河原さんってダサすぎるで。ああいう人種がいること自体信じられん。でも、あの人いつも楽しそうに生きてはるな。ほんまに楽しいんかな。ま、どっちにしても俺には絶対に真似のできな人生を生きてはることだけは間違いない。俺たちとはあまりにも違う世界や」


 店に戻り、チーフに伝えた。


「あのぅ、柳河原さんを本気で怒らせてしまいました。どうしたらいいのか」


「なんやどうしたんや」


「出る前に電話しろって言われてたんですけど忘れたんですよ」


「あのおっさん、それくらいで怒ったらあかんわ~」


「いや違うんです。柳河原さん、ヅラやったんですよ。ツルッパゲ。髪の毛ゼロです」


「えっ、そういえばあのおっさん、いつ見てもきっちりと七三分けになっとるな。髪型が変わったことないわ。むふっ、むふふふ、あっはっはっはっは」


 チーフは大声を上げて笑い出した。と同時に祐介もなんだか笑えてきた。


「えへ、あは、あはは、はははははは」


 申し訳ないが笑いを堪えることができなかった。


「しかし、そんな本気で怒ることないのになぁ。ハゲでも堂々としてたらええのに」


「ほんの瞬間だけツルッパゲの柳河原さんの顔を見ましたけど、意外に様になってましたよ。逆にヅラせんほうがよかったりして」


「他のメンバーは知っとるんかな~」


 柳河原には同じようにパチンコ好きの職場の後輩が三、四人いて、パチンコ屋での台の回し合いや、『北京飯店』に毎晩のようにやってきて他の台の情報交換など、パチンコミーティングに花を咲かせているメンバーがいる。


「さぁてどうなんでしょう。しかし、ヅラをかぶる人を見たのは初めてです」


「聞くところによるとヅラもピンきりらしいで。高級なやつは毎月どっかにいってちゃんと手入れしてもらうらしいわ。散髪をするのかもしれんな。そのままでは不自然やということで」


「へぇ、単純に見えて手間がかかるもんですね」


「柳河原さんももしかしたら何ヶ月かごとに調整とかしてるかもしれん。まぁ、ボーナスが入る頃とか」


「それにしても僕は大きな失敗をしてしまいました。確かに柳河原さんは念を押して出る前に電話をくれと言っていたのにすっかり忘れてました。ドアを開けてしもた時のあの怒った口調は本気やったなぁ」


「ほんま片山君は真面目やなぁ。そんなもん気にせんでええねん。男は誰でも髪の毛がなくなる可能性はあるんやし」


「柳河原さんて実はごっつ苦労人なんですね。僕ずっとあの人のこと単なるパチンコ馬鹿としか思ってませんでした。でも、郷里から一人大阪へ出てきて、工場で働き、あの薄暗い寮で洗濯をし、部屋の掃除をしていると思うと…」


「はぁ何を言うてんねん。殆どの人間はそんなもんや。なんも珍しいことやない。あのおっさんは普通のおっさん、まともなほうやて」


「そうなんですか。僕らなんかより何百倍も苦労してはるような気がしてきて。ほんま頑張って生きてはりますわ。なんか、ごめんなさいって感じで」


「片山君は育ちがええねん。あのおっさんはただのパチンコ部長。それだけや。そんなこと気にしたらあかんで」


 気にしなくていい、柳河原のような生活をしている人はごく普通、というチーフの軽い受け答え。しかし、常連客との仲にも礼儀あり、という自戒の思い。一方で、自分たちこそが苦労人という思いが実は浅はかだったこと。と同時に柳河原のような人生にはなりたくない、自分は違う、自分はもっと華やかで人々から羨ましがられるような人生を生きるのだ、などと祐介は複雑な思いで息が詰まりそうになった。

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