釣りと魚料理

 十一月のある日、釣りに行くことになった。常連客のオサムちゃんとチーフが釣りの話題で盛り上がり、「だったら就職内定祝いということで片山君も連れていってやろう」いうことになったのだ。釣りは今まで子供の頃に山中湖でワカサギ釣りをしただけでほぼ未知の世界である。


 行き先は神戸西部にある瀬戸内海に面した舞子。現在は世界一大きな明石海峡大橋が架かかるが、当時はまだ存在していない。


 午後三時頃、原っぱのようなところにオサムちゃんのワゴン車が止まった。車を降りると潮のにおいのする風が吹いている。一〇〇メートルほど歩き小高い丘を越えたら、そこに瀬戸内海が広がっていた。


 道具はすべてオサムちゃんが用意してくれている。さっそく仕度をして、テトラポットの上から投げる。が、祐介はリールというものを触るのも投げるのも初めてのこと。オサムちゃんが丁寧に教えてくれるのだが、これがなかなかうまく行かない。


「ええか、これは投げサビキといって初心者でも楽しめる簡単な釣りや。この糸をたくさん巻き付けた装置をリールって言って、投げる前にリールのガイドを外し、人差し指で糸を抑えながら、投げると同時に指を離すんや。どう、簡単やろ」


 指を離すタイミングがつかめず、背後に落ちたり、上にあがったり、横に飛んでチーフの糸にもつれたりでもう大変。仕掛けはゴルフボールよりも大きな浮きと、長さ七、八センチ、直系三、四センチのプラスティック製の籠があり、この中にアミエビといわれる臭い小さなエビの塊を詰め込む。その下にいくつもの針と錘がぶら下がっている。


 たまにうまく投げることができると、そのたびに「よっしゃー、それそれ、いい感じ~」などと誉めるのも上手なオサムちゃん。


 オサムちゃんはチーフと同じくらいの年齢で、酒かパチンコばかりの常連客の中では珍しく、テニスやゴルフなどアウトドアの趣味が多い人である。酒、女、賭け事は一切なし。肌は小麦色で体系は細マッチョ。さらりとしたストレートヘアーのセンターわけという実にナイスなスポーツマンで、どことなく草刈正雄似。女性からめちゃめちゃもてるという噂だったが確かにそんな気がする。


 一方、チーフはどうかというと、これが驚くほどに竿の扱いが上手である。

「チーフって釣りめちゃめちゃうまいんですね。いが~い」


「わしは淡路島の出身やから。海の近くで生まれ育ったもんやからよう釣りはやっとったんや」


 すぐ目の前に淡路島がくっきりと見えている。距離は三キロほどしかない。


「あっそうやん。チーフって淡路島の人やんか。ここまで来たら実家に帰りたいのとちゃいますの」


「いやいや、わしは五人兄弟の末っ子やし。みんなと歳が離れてて話は全く合わん。親なんておじいちゃんおばあちゃんみたいなもんや。会っても何の話をしたらええかわからんねん。こうやってオサムちゃんと釣りしているほうがはるかに楽しいわ」


「へぇ~家族がぎょうさんいても、そうこともあるんですね」


「この場所は淡路島と本州が最も近い場所やねん。せやから潮の流れがめちゃ早いやろ。こういう場所でこそいい魚が釣れる可能性が高いんやで」

 オサムちゃんが言う。


 吹き続ける潮風は磯の香りが濃い。しばらくが経ち、オサムちゃんの浮きが勢いよく沈んだ。


「おおっ、これはいい引きや。サバかな。なかなか大きいかもっ」


 はしゃぎしながらリールを巻き上げていくオサムちゃん。釣り上げると三〇センチほどもある大きなサバであった。茨木から車で一時間半ほどの海で、このような立派なサバが釣れてしまうことに驚くばかり。


「うっわぁ、めちゃめちゃでかいっ。これ、魚屋で売ってるのと同じですやんっ。塩焼にして食べたら最高なんとちゃいますか」


 そう言うとオサムちゃんは濃い眉毛の片方をくいっと上げてこう返した。

「ノンノンノン、それやから素人は困るなぁ。サバは脂が乗っててなんぼや。これを見てみ、サイズは大きいかも知れんけど痩せてるやろ」


「あ、ほんまやな。えらい貧相な身体つきしとるわ」

 チーフがオサムちゃんの釣ったサバを覗き込みながら言う。


「へぇ、そんなん僕には全然わかりません。ただのサバとしか」


「魚ってものは種類で見たらあかんねん。まずは顔や。強そうな顔、平和ボケしてそうな顔、世間知らずな顔、すれた顔、いろいろある。次に体つき。いくら長さが三十センチあっても薄いやつ、細いやつもあるから。これ見てみ、細長いし、正面から見たらうっすいやろ。あとは色やな。どす黒い奴、色が抜けてるやつ、ぴかぴかと光ってるやつ、真っ青なやつ。全部味が違うんやで。それにサバの場合は生き腐れと言って、こいつらはすぐに傷みよるねん。希に生きてるのに腹の中が腐ってるやつもいるから要注意や」


「ええっ、気持ち悪いですね。新しかったらそれでいいもんやと思ってました」


 オサムちゃんは木製の小さなまな板とナイフを取り出して、暴れるサバをぐいっと鷲づかみにし、エラの裏側にナイフをズブッと突き刺した。サバがびくびくと小刻みに震えている。そしてナイフを抜き、今度は同じところに指を突っ込み、縦にパキッとへし折り、血がプッシュー。と同時に海水を汲んでおいたバケツの中でじゃぶじゃぶと洗い、エラを取り去って海へ投げ捨て、氷の入ったクーラーボックスの中にぽいっと放り込んだ。


「これでもまだ安心はできへん。サバは死んでも寄生虫は生きとるから。アニサキスという線虫の幼虫がついてることがようあって、これを食べると痛いわゲロ吐くわで大変なことになる。下手すると入院もんやで。ほんまはワタ(内臓)もだしておいたほうがええねんけど、そろそろ時合(釣れる時間帯)やからそんなことまでやってる暇はない。ささ、次投げよう」


 そんなときに今度はチーフの浮きが沈んだ。

「おおっ、今度はわしのにきたで~」


 チーフとオサムちゃんが大騒ぎしながら竿を立ててリールを巻く。今度は先よりもやや小さめのアジだった。そしてチーフもまたアジのエラにナイフを立てて、ずぶっと一押ししてからバケツの中で血を洗い流し、クーラーボックスの中に収めた。


「アジもやっぱり食中毒おこしますか」


「うん、まぁな。でもサバほど虫はおらんのでまだ安心や。アジは生で食べることも多いから、今ナイフを入れたんは臭みを取るためやな。後で持って帰ってから食べよう。今日は舞と憂も待っとるから」

 舞と憂とはチーフの愛娘である。舞が長女で七歳。憂が次女で五歳。


 そして、またオサムちゃんの竿が大きくしなった。

「おおーっし、きた。これはまたサバか。横に物凄いスピードで走っとる。うぐぐ、これは大きいぞ。もしかしたら四〇センチ級かっ。なかなか強い引きや」


 釣り上げるとなんと二匹のサバがかかっていた。再びズブッ・パキッ・プッシューと処理をしてクーラーボックスへ一丁あがり。その後もオサムちゃんの釣り竿はしなり続け連続してサバを、チーフは大半がアジを釣り、一時間ほどの間に何十もの魚を釣り上げた。


「あれ~おかしいな、僕の浮きが沈まないのはなんで。悔しいなぁ」


「片山君、それはね君の想像力のなさが原因やねん。釣りというのは方法や道具よりも、一番ものを言うのが想像力なんよ。魚が今どんな深さでどのあたりをどういう風に泳いでるのかをよう想像してみ。ここでは潮流が早くて、岩礁の藻とか、海底の稚魚や稚貝なんかは喰われへん。食べるとしたら海に漂ってる小さな魚とかエビやろ。でも、それがある程度は自分の通り道にないと潮流が速いもんやから細かく方向を変えられへんやん。な、どんどんイメージ沸いてきたやろ。ほら、自分の浮きを見てみ。そんな潮がほとんど動いてないテトラの横やん。よう見てみ、一五メートルほど先に大きな筋みたいなんが見えてるやろ。あそこかは風と潮の通り道や。そして西から東へ流れてる。今ぎょうさんの魚があの流れの中を泳いでるのかもしれん」


 浮きを一度巻き戻して、オサムちゃんが言うように、竿をしならせるイメージで、大きく振りかぶって投げてみる。


「おおっとー、ちゃんと飛んだやん。いいぞ、そこなら魚が通るはず」


 すると一分も経たないうちに祐介の大きな浮きがしゅぼっと消えた。


 オサムちゃんが自分の竿を置いて、祐介の横に駆けつける。

「片山君っ、今や竿を上に立てるんや。それでリールをしっかり巻き上げる」


「ひぇっ~、ぐいぐいと右や左へと引っ張られます。うぐぐっ、重たい。魚にこんなに力があるとは」


 釣れたのは三〇センチ越えの大きなサバであった。生まれて初めて海の魚を釣り上げた瞬間である。オサムちゃんが手際よく〆てくれて、無事にクーラーボックスへ。


 味をしめた祐介は慌てて籠に新たなエサを詰めて、慣れない手つきで浮きを飛ばす。


 夕方の六時頃、潮時がやってくる。


「釣りには魚ごとに時合いというものがあるから。その魚が釣れる時間帯というやつ。投げサビキはそろそろ終わりかな。仕掛けはこうしてばらして、竿は袋に入れる。あとは自分たちが出したゴミがないかチェックや。特に針とか金属、プラスティック製品とか、自然に帰らんもん危ないもんは必ず拾い集めること。忘れ物のないように車に積み込めば終了や。海釣りのマナー、ちゃんと覚えといてよ」


 帰路に着く。海岸沿いを走る国道二号線を東に向かい、西に沈みゆく赤い陽射しに照らし出される淡路島を望む。


「今日は最高に楽しかったです。ありがとうございました。チーフの故郷、淡路島が

遠ざかっていく~。淡路島ってきっと魚がうまいんでしょうね」


「そうやな。魚ももちろんやし、山も豊かやから昔から野菜や牛乳なんかもおいしいわ。野良山へ分け入って山芋掘りや山菜摘みなんかもよくやった」


 車は須磨浦の松林公園を超え、やがて阪神高速三号線へと入った。ここまでくると視界に入る殆どのものが人工的なものに入れ替わる。が、やはり神戸の街並みは洋館も多くてとてもデザインされており、旅気分は盛り上がったまま。


 すっかり日が暮れて、西宮でジョイントする名神高速道路に入る頃には周囲は真っ暗になっていた。そして、茨木インターに群がるラブホテル群の灯りを見たとたん、一気に興醒めるのであった。ざっと二時間の道のりである。


 店に戻ってくると社長と舞ちゃん憂ちゃんが待っていた。オサムちゃんがクーラーボックスの中の魚を別ける。釣果はオサムちゃんがサバを中心に約三〇尾。チーフが味を中心に約二〇尾。そして祐介がサバを三尾とアジ一尾だった。チーフは自分が釣った分をさっと流水で洗いバットの中へ放り込む。いったい今から何が始まるのか。祐介は厨房でチーフの横について興味津々とチーフの手元に目を凝らす。


 シンクの上に小さなまな板を置き、何尾かのアジの腹にペティナイフを入れてワタを取り出していく。寄生虫がいるかもしれないと聞いていたサバからは、一際大きなワタが飛び出してきた。これらを再び流水で洗い、今度はアジのゼンゴと呼ばれる側面の骨のような部分をそぎ落とし、半身ずつに切り分けた。三枚卸というやつだ。その後薄い皮を手で剥きとり、身を細かく切り、たっぷりのネギのみじん切りや生姜、醤油、ごま油を少しだけ垂らしてよく混ぜ出来上がり。


「これをアジのたたきというねん。茗荷や大羽の刻み、ゴマなんかを入れると臭みが消えてもっと美味しくなるのよ。酒のつまみにあうねん」


 社長が菊正宗の熱燗を傾けている。


 次にサバ。こちらも三枚卸にした後、五センチ幅くらいにぶつ切りにして、塩と胡椒、卵少しと片栗粉をいれ油で揚げた。山椒塩をつけて食べる。鶏の天ぷらやエビの天ぷらを食べる時につける香り塩だ。祐介はがっつくように三、四枚を口に放り込んだ。


 残りのアジ数尾は下味をつけず姿揚げに。油はいつも以上にばちばちと弾け、黄金色の泡が吹き出す。一度油を切って、少し冷ましてから再び油の中へ。魚が揚がり切るまでの間に、今度は熱したフライパンに豆板醤、鷹の爪、潰したニンニク、細切りにしたタマネギやピーマン、ニンジンなどをいれ、鶏がらスープを注ぎ、醤油と酢、砂糖などを入れて水どき片栗粉を加え、火を切ってからごま油を垂らす。そして二度揚げ中のアジを取り上げ、皿に移して、仕立てた餡を上からチュワッっとかける。


「ほい、アジの辛子あんかけ。小さいのんは骨ごといけるから」


 みんなで取り分けて食べる。ガリッガリッ、サクッサクッ・・・。小さなアジの身と大きなアジの実で食感が違ってたまらない。


「それにしてもチーフがこんな料理も作れるなんて驚きです。これって中華なんですか」


「そうや、中華料理は魚もよく使うんや。特に草魚ってやつとか鯉とかの淡水魚が多いけどな。同じような餡かけ料理をサバやスズキ、鰆でやってもおいしいで。唐辛子と中国山椒でもっと辛くする料理法もある。そういうのを麻辣味っていうねん」


「こんなにうまいもんがあったなんて。なんでメニューに入れへんのですか」


「そんなもんここいらの客が頼むと思うか。骨入ってるとか、臭いとか言うてすぐ却下やわ。やっぱり肉やないと納得せーへん。ま、魚は鮮度が大事やし、こんな小さい店では使いにくいのも事実やけどな。肉やったら一週間くらい置いとけるやん」


 社長は酒には目がないが料理の蘊蓄には一切興味がない。ただただ、飲んで食べるだけである。舞と憂はがつがつと平らげて満足そうであった。

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