パチンコ店長まさかの逃亡

 十月のある昼下がり。

 祐介は今日も餃子用のキャベツのみじん切りに精を出していた。チーフはロンピーを吹かしながら勝手口にもたれて外を眺めている。


「うわぁぁ、あの子ほんまのほんまに可愛いなぁ。髪型もよう似合ってるわ。片山君も見てみ。めちゃめちゃ可愛いで。ん、もしかしてあの子、前もおった子とちゃうか」

 また始まった。祐介は背を向けたまま包丁の手元に集中する。ザクザクザク…。


 そんなときである。パチンコ部長の柳河原が、バス停に待つ人々の前を通り抜け、勝手口の前へ自転車で突っ込んできた。


キキ―――ッ。ズズズッ――――


「うぉっ、なんやおっさん。危ないやないかっ」


「なんやじゃないって、おい、大変なことになったぞっ。パチンコ屋の店長、売上持って飛んだらしいぞ。たぶん昨夜のことだろうってさ」


 チーフが首をぐいっと立てて、汗で光る柳河原の額を見る。


「なんやてっ、あの紳士が。あの人だけは堅気に見えたんやけどなぁ」


 思わず包丁を止めて振り返る祐介。


「な、な、なんですかっ、飛んだって」


「お前はなんもわかってないヤツだな~。逃げた、ってことだよ。単独で夜逃げ。いま、パチンコしてたらいきなりパトカーがたくさん集まってきて、本日は緊急閉店しますって放送があって客は全員追い出された。今は黄色いテープ貼られて中に入れなくなってる。なにやら五~六〇〇万円いかれたって噂だよ」


「え、そんなに売上あったんや。それってやっぱり一日分やろうな。やっぱりパチンコ屋はすごいな。なんやわしら小さな商売しててバカバカしくなってくるわ」


「でも、そんな金額で夜逃げするのも割が合わないんじゃないのか。よく考えてみろよ。パチンコ屋の店長だったらそれなりの給料をもらってたはずだぞ。そんな五~六〇〇万円のためにすべてをパーにしちゃうなんてよほどのことがあったんだろうよ」


「そう言われてみたらそうやな。なんか下手をうったか、とにかく今すぐ必要な状況やったか」


「でもどうせすぐに捕まるんとちゃいますか。銀行強盗とかってだいたい捕まってますもんね」


「いやいや、案外捕まらないんじゃないか。パチンコ屋の店長だぞ。一番やりそうもない人間がやっちゃってるわけだから。しかも中途半端な金額だ。これが何千何億だったらきっとパチンコ屋の防備も銀行並みだったろうけどそこまでのレベルじゃない。下手をするとずっと前から計画してたかもしれない」


「あの店長さんが来はったんはいつやったかいな。そんな古い話やない…」


「あの人は確か去年の春頃だよ。まだ一年半。ありえるな。元々盗みが性癖ってやつはけっこう多いから」


「そういえばぼくの同級生の中にも、金を持っててもわざわざ万引きばかりしてるやつがいますわ」


「それと同じようなもんだ。盗っちゃいけないものを盗ってしまうという病気みたいなもんで、スリルがたまらないんだろう」


「あの店長さんて前科もんやったんかいな」


「さぁて、そこまではわからないよ。でも人は見かけじゃわかんないから」


「いやぁ、夜逃げなんて信じられませんね。そういえばいつだったか、チーフが誰かの保証人になって逃げられてしまったということがあったような」


「おいおい、いらんこと覚えとるな。あれはほんまに酷かった。信じてたのに」


「チーフも人が良すぎだよ。いったいどういう人からそんなことを頼まれてしまうわけ」


「ふん、元同僚。同じ店で勤めてた人で自分で商売してやった。それで自分ところの従業員の給料が払えなくなって泣きついてきたんや。もう後がないって感じやった。わしが貸さんかったら飛んでたか身を投げてたかもしれん」


「そんなもん貸しちゃだめにきまってるじゃんよ。俺なんてなんぼあっても絶対に貸さないよ。貸すくらいだったらあげるから。金を貸すというのはそういうこと」


「しかし、そんな元同僚って。友人みたいなもんやのに悔しいですね。逃げてしまったその人のこと追わないんですか」


「それが店に電話しても通じへん。もしかしたらすでに店ごと飛んでしもてるかもしれん。もうしゃあないわ。今頃どうしとんのやろと思うけど。死んでなかったらええけどな」


「ふん、チーフは優しすぎるよ。人って金がなくなったらどんなやつでも豹変するから。うちの会社の隣にある工場の社長もこないだ飛んだって話。噂では自害してるとも。追い込まれた人間は心が壊れてしまう。そう考えるとパチンコ屋の店長は相当な食わせ者だったってことだな」


「しかしあの店長さん、ほんま誰よりもまっすぐで、あの店で一番まっとうな人に見えたんやけどな。ショックやわ。ほんまに人はわからんもんやなぁ」


「ほんとだよ。前にも一度あったろ、店の金ドロンして逃げた従業員が。でもあいつはみんなも知ってる元コソ泥の前科もんで、たかが数十万円のまぁ想像通りの金額。でも今回はひと桁違うし、なんてったって誰よりも人ができてそうに見えた店長だから。やっぱり何か借金でもあったのかもな」


「借金か。僕もバイクのローンがあと一〇〇万円くらい残ってます」


「まさかチーフも借金はないだろうな」


「そんなもんとっくに返したわ。十年の返済予定を五年やで。まぁ、兄弟子に看板代をいまだに払ってるけどな」


「何、その看板代って」

 柳川原が顔をしかめる。


「わしらの世界ではよくあることなんやけど、先輩が先に独立してて、その人の屋号で、同じ縄張りで店を開けさせてもらうから毎月看板代を払わなかんねん」

「ええっ、そんなことあるんですか。なんか嫌な感じですね」


「隣の吹田市の『北京飯店』あるやろ。あそこが暖簾分け元や。しゃあない、これが中華料理界のしきたりやから」


「そんなもんチーフ、ヤクザのみかじめ料と同じようなもんじゃないの」


「いやいや、そっちの方が優しいって。だって開業当初はあったけどもう数年前になくなってるし。ほら、元々この辺りは龍神会の縄張りやったのに途中から鈴木組がきたやろ。どちらも同じ系統の組やのにその用心棒の件でえらい揉めて。結局龍神会の親分がみかじめ料をなくすと言って禁止になったんや。その代わり正月の門松を付き合わなあかんようになったけどな」


「えっ、あの正月の大そうな門松のことですか。あれ、もしかして組から買ってたんですか」


「お前はほんまに世間知らずだなぁ。そういう裏稼業と町は裏表のセットなんだって。まぁ今は用心棒なんて時代遅れみたいだけどな。門松だけじゃなくノミ屋(競馬や野球などを利用して違法に賭博を仕切る人たち)もあっちの仕事だよ。まぁ他にもいろいろな。とにかくそういう付き合いがあるから、この荒くれた裏町がなんとか平和でいられるんだよ。世の中はどこもそういう風になってんの」


「ほな、あの若頭のガッちゃんも、実はそういう付き合いで店に来てるんですか」


「いやいや、ガッちゃんは純粋にうちの餃子と鶏の辛し炒めが好きなだけや。これはある程度は仕方のないこと。街中の繁華街で商売しようと思ったらもっとたくさん払わされると思うで。ここらはましなほうや。元々龍神会は博徒や用心棒なんかを主な生業としてきてる任侠な組で、みんなが儲かっていくことで自分らも儲けるやり方や。堅気をつぶすと売上が減る。そやから人々にダメージを与えてしまう今時のヤク密売や詐欺なんかに手は出してないと思うで。そもそも門松かて最初の頃の半額にまで負けてくれてるわけやし」


「え、今はいくら払ってるんですか」


「一〇万円。昔は二〇万円。それでも街中と比べると破格やと思うで」


 しかし、それにしても今回の店長夜逃げ事件にはみんな驚いた。それほど店長は紳士に見えたし、人望の厚い人だったからだ。年齢は四〇代後半か五〇代前半の頃。背丈は一七五センチほどのややがっちりの体格で、白いシャツとネクタイがとてもよく似合っていた。いつも店の周辺を一人で掃き掃除していて、祐介とも顔を合わすたびに笑顔で挨拶をしてくれるような爽やかな人であった。ただし、最も稼ぎがいいはずの店長なのに一人者だったことだけはちょっと不思議だ、と周りの大人たちが噂していることはあった。謎は深まるばかり。

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