第二幕 大人への門

待つわ~♬

 八月のある夜の十一時過ぎ。

 今日は『北京飯店』を早仕舞いして、チーフが遊びにつれていってくれることになった。


 やってきたのは常連客でもある三好夫妻が経営する『スナック・ワラカス』。『北京飯店』からイナイチを五〇〇メートルほど北へ行った先の、神社と池の隙間みたいなところに店はある。


 カランカラン…。

「たとえ~どんなに灯りが欲しく~ともぉ~。おれにはお前が最後のぉ~おぉんなぁ~♪」

 大音量で誰かが歌うカラオケが耳に飛び込んでくる。

 

 店の中はバスの車内のように細長い形になっていて、壁に沿って一直線にソファが並んでいた。広さは一〇坪ほど。三好夫妻がカラオケにも負けないハイテンションで出迎える。


「ほぉっーーー兄ちゃんやっと来たか。今日はとことん飲ましたるさかいなぁ」


「これっ、またそんなこと言う。お兄ちゃんはカラオケだけ。お酒はアカンでっ」


 三好夫妻には祐介よりも三歳年下の子供がいて、ママは祐介の顔を見るたびにオカンみたなことを言うのであった。


 二人の雰囲気は『北京飯店』で見る時とは明らかに違う。平素は物静かなごく普通の中年夫婦なのだが、ここでは顔も服装もきらきらとしていて、まるで演芸場に立つ夫婦芸人のようである。マスターはメガネを取った横山やすしのような顔でぴっちりとオールバックで決めている。そして、ファンデーションを塗っているのでやや赤ら顔。祐介はすぐに気が付き、チーフに耳打ちする。


「三好さんてもしやオカマなんですかね。化粧してはりますよ」


「それはないわ~片山君。オカマなんて言うたら虹の花のママに叱られるで」


『虹の花』というのはここ『スナック・ワラカス』からさらに西へ五〇〇メートルほど行ったところにある、オカマのママが一人でやっているカウンターだけのスナックだ。そちらもちょくちょく出前でお世話になっている。


 するとマスターがその会話を聞き一言。

「なんや虹の花と同じにしたらあかんで。オカマでなくとも男が化粧することもあるんやで。歌手や役者を見てみ。なんや、それとも化粧に興味があるんか」


「いやいや、勘弁してください」


 一方のママはもっと芸人風だ。酒のせいもあってかほっぺがリンゴのように真っ赤っか。唇はいつもの倍くらいに膨らんでいてぴっかぴか。瞼はばっさばさと真っ黒だ。関西の大御所タレント上沼恵美子にそっくりである。


 入口付近では二人の初老の男性が赤い顔してカラオケを歌っていた。当時のカラオケの多くは、歌手と曲名がぎっしりと書かれたカセットテープと分厚い歌詞ブックがセットであったが、こちらには最新鋭の機械が導入され、町でちょっとばかり噂になっていた。


 マスターが言う。

「これやがな。前に言うてたレーザーディスクっちゅうのんは。ほら、ガラスの中をよう見てみ。上の方に虹のように奇麗に輝くレコードみたいなんが一枚だけ挟まってくるくる回っとるやろ。あん中に数えきれんほどの曲が入っとるんやでぇ。それに映像も映るんや。ほらあそこ。テレビに写っとるやろ」


 その黒色の機械は冷蔵庫ほども大きく、ワインセラーのようにガラス窓から中が見えるようになっている。自動的にディスクが取り出され、数秒後にテレビモニターに映像が映り、音楽が始まった。歌詞は本ではなく、映画の翻訳のように映像に流れるようになっているのが画期的。歌いながらページをめくる必要はもうないのだ。


「これからのカラオケはサイエンスや。後で兄ちゃんにも最新鋭マシンで歌わせてあげるからな。ほな、まずは乾杯しよ」


 そう言って隣に座ったママが祐介にコーラを注ぎ、次に水割り用のミネラルウォーターの栓を開けた。チーフがロンピーをふかしながらぽつりと口を開く。


「あ、ママはん、僕は酒飲まへんから。車やし、コーラでええわ。代わりに酒は片山君が飲むから。この子、お酒大好きやねん。見てみぃ、この風貌や。どこからどう見ても高校生やない」


 当時の祐介に高校生の雰囲気はまったくない。マッチョな体つきで声が図太くでかく、いつもタバコをすぱすぱとやっている。酒については中学時代から常飲しており、高校時代はミニボトルを学生服のポケットに入れて登校していたほどの酒好きである。


 ママが応える。

「あ、そうか。チーフは酒が飲まれへんかったんやね。そうやん、いっつも社長(奥さん)だけが飲んでたんやった。今日はこのボトルはお預け。兄ちゃんはまだ高校生やからもう一つコーラいれたろ」


「いや、ほんまに片山君は酒好きやねん。今日は激励会っちゅうことで飲ましたって」


「なんやて、アカンよ高校生は」


「まぁそう硬いこと言わんと」


「う~ん、ほな一つだけ約束してくれるかな。兄ちゃん、さぼらんと高校へ行くこと。そんで落第せずに卒業すること。あんた、どんな思いでお母さんが毎日遅くまで働いてると思ってんの。それをわからんかったらあんたは一生ろくでなしや。それを約束してくれたら一杯だけ飲ましたる。どうや、私に約束できるか」


 祐介は勉強ができないわけではないが、賭博喫茶の『ピアザ』に通い過ぎて授業を受けるのがおろそかになり、二年続けて追試を受けて何とか進級している状況だった。そのことを知っているママは『北京飯店』で祐介の顔を見るたび心配していたのだった。


 今は夏休みの真っ只中である。チーフの誘いに乗ってせっかく楽しみにやってきた祐介であったが、のっけから冷や水をかけられたような気分になってしまった。


 と、空気が重たくなりかけたその瞬間、いきなり「うっぎゃー見えそう」「でっかいおっぱいやなぁ」などと超ノー天気な雄たけびが降ってきた。隣の初老たちだ。


 熱い目線の先はカラオケのテレビモニター。なんとそこには大きな胸をゆっさゆっさと揺らしながら砂浜を駆けるタンクトップ姿の女性が映っているではないか。流れている曲は当時大流行していた「あみん」という女性二人組みの「待つわ」。


「かわいい顔してあの子 わりとやるもんだねと 言われ続けたあのころ 生きるのがつらかった♪」


 切ないメロディと歌詞。そして砂浜で揺れ続ける胸。歌と映像がまったくあっていない、そのあまりにアバンギャルドな映像を見た瞬間、祐介の思考回路は完全に停止。


 と、そこにマスターがいきなり祐介の顔を両手で掴んで反対側に振り向かせた。

「こらこら、若い君には刺激がきつすぎたかいな。今な、お兄ちゃんの将来について話しとるんや。よう聞いとかなあかんでぇ」


 よろめく祐介にまったく気が付いていないチーフは真面目な表情になって話しだす。

「片山君ところはお母さんがほんまによう頑張ってはる。お父さん早うに死んでしもて、それ以来振り返ることなく働き尽くめや。学校を辞めてしもたら最悪やわ。とにかく最後まで行くのが親孝行なんは間違いない」


 さすがに父親の話をされると血の気が冷めていく祐介。父の死についてはまだまだ整理がついていなかった。しばらく間をおいてこう応える。

「オカンはね、僕に大学へ行けない家の子、と思う必要はないって言うんですよ。行きたかったらその道を選んでもいい、という意味やと思います」


「凄いやないか。片山君は幸せやで、いいお母さんでよかった」


「うん、そう思ってます。でもね、兄貴がアカンのです。聞いたこともないクソ高い私立大学に入って。でも、一年も経たんうちにヘヴィメタのミュージシャンになる言うて辞めてしもたんですわ。オカンが血の滲むような思いで用意した金を全部ドブに捨てよった。もう家にも帰ってこーへんしどこに行ってしもたかわからんのです。中学時代は親父の代わりや言うて散々俺を殴っていたくせに。それこそオカンが可哀相で」


「そうか。でも、きっと本人が一番苦しんでるわ。プレッシャーがあったんやで」


「ふんっ、自分は大学へ行けてそれで十分やのに」


「そんな風に思ったらあかん。浅賀君のお兄ちゃんを見てみ。あの子は暴走族の頭をやったまではよかったけど、スジの人も手がつけられんほど暴れるもんやから挙句の果てにムショへはいってしもた。片山君のお兄ちゃんはそんなんとは違うやん。ヘビーロックかなんか知らんけど、人を傷つけたりはせん。片山君もバイクレースやりながらでええから、とにかく最後まで学校へ行き」


「いやね、高校が嫌いなんと違うんです。高校があるから友達や彼女とも会えたし。ただ、たまに高校って何の意味があるのかなと思います。教師なんかはよく言うんですよ。最低でも高卒。できれば大学まで行って立派な企業に就職することが幸せなことやって。でもね、なんで大学でて立派な企業に就職したら幸せなんかって尋ねると、これが見事に誰もよう応えられんのです。どうも教師も幸せが何かわかってない気がして」


「片山君、それはな、高卒とか大卒やと、いざという時につぶしが利くということや。方程式がどう役立つんかわしにもわからん。でもな、万が一勤め先が倒産したり仕事がなくなっても、中卒では雇ってくれへんことが多いんや。仮に雇ってくれても給料が高卒や大卒に比べて低い。わしも中卒やからそのことを痛いほど知っとる。まぁ今のところ中華で食えてるけど、この先どうなるかわからんで」


「なんでですのん。チーフは大卒の教師よりよっぽど立派やと思います。三好さんや柳河原さん、あのガッちゃんもみんなチーフの料理が大好きですやん。教師なんかみんな偉そうに口だけですわ。あいつらの話を聞くだけ時間の無駄やと思ってます」


「そうかもな。でも中卒はやっぱり単純に弱いから。わしを見てみいな。中卒やから漢字は間違うし、しょっちゅう読まれへんし字も書かれへん。足し算引き算が得意なだけや」


「漢字なんていりませんやん。料理名と客の名前さえ書けたら」


「まぁな。でも、人はそれぞれ生まれ育つ環境が違うから。わしと空本君、浅賀君もみんな違う。片山君は高校へ行けたんやから。そのまま卒業するのが自然の流れや」


 チーフと祐介の会話を横で聞いていたマスターが、大きく息を吸い込み腕を組みながらこう話しだした。


「ちょっとええかな。兄ちゃんの言うことようわかる。わかるけど、友達かて大好きな彼女かて、みんな高校を卒業するわけやからな。兄ちゃんだけが残るわけにいかんやろ。わいかて実は中卒や。だから飲み屋かってわけやないけど、最初から望んでこの店開けたわけとちゃう。いろいろ壁にぶつかってこういうことになってる。学校に意味があるかないかなんて今考えてもわからんて。もしかしたらほんまに何の役にも立たんかもしれんし。でも、これだけは言える。それは、きっちりと自分の後始末をする、ということや。なんでもそうや。いつかこの店も終わる時が来る。チーフの中華屋もそう。人の命も。始めと同じくらい、終わりはものごっつ大事やねん。これは自分自身の落とし前っちゅうやつや。人間はみんな絶対に自分の後始末はせなあかん。会社の社長もヤーコ(ヤクザ)もみな同じ。それが生きることの責任や。エッチもそうやろ、やったらそれで終わりちゃうやろ」


「いや、それで終わり」


「おい、こらっ。まぁええわ。とにかく最後まで走り切ることや。そうすることでまた次がやってくるから」


「マスターの言う通りや。ほな、片山君、これからも頑張って学校へ行くということで、かんぱ~い」


 と、その瞬間祐介はふと我に返る。そうだ、あの映像はどうなったのか。すぐさま初老たちが眺めるモニターのほうへと振り向いた。


「たとえあなたが振り向いてくれなくても 待つわ いつまでも待つわ せめてあなたを見つめていられるのなら~♪」と切ない歌声と共に無情にも画像は消えていった。


 高校三年の祐介にとって一番大切なのは、親や高校を卒業することよりも、正直揺れる胸を見ることであった。

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