やっぱり強い鶏ガラスープ
ある日の三時頃。チーフと祐介が仕込みをしていたら勝手口から、ツナギ姿の空本が入ってきた。彼は時折こうして何かのついでに立ち寄るのだった。
「空本君、おはよう! なんか食うか?」
チーフは昼夜を問わずその日初めての挨拶はこの「おはよう」だ。
「いらんって。何でこんな時間にメシ食わなあかんねん!」
「それにしても空本君はツナギ姿がほんまによう似合うとるな。バイクの世界に入って大正解や」
「ほんまほんま。変な学生服よりはるかに似合う」
そんな会話をしているうち、何かの拍子に物騒な話題になった。いつぞやの強盗事件について空本が語る。
「いやな、チーフがいっぺん刺されそうになったことがあるんや。カウンターでラーメンを食ってた変なチンピラがいきなりドス(短刀)を突きつけてきて”金出せ!”って叫びよった」
「なにそれ、刺されそうってシャレにならん。シャブ中かなんか」
「たぶんな。ずっと挙動が変やったよね、チーフ」
「そやな、あれは流れもんやで、この辺では見ん顔や」
チーフは「流れもん」という言葉をよく使う。それほどこのあたりには、素性のわからない怪しいヤツが多かったのだ。それにしても白昼の中華屋でいきなりドスを出すなんてちょっとクレイジーな話である。
「そう、あれはほんまにイカレテた。実はその前に一度店にきたんよ。最初は真昼間や。灰色の着物を着ててな、カウンターに座りよった。俺が水を持っていくと胸と肘あたりから青い墨が見えたんや。あぁこいつ堅気やないなとわかった。で、そのとき目がえらい踊ってて気色悪いやつやなと思ってたんやけど。でもまぁそのときは金を払って出て行った。またラーメンの食い方が汚くて、まるで犬が食ったみたいに散らばってたわ」
「で、その二時間後くらいにまた来て。今度はこの辺に座りやった」とチーフ。そこはカウンター中央よりやや右側で、目の前には並々と鶏ガラスープのはいった直系七、八〇センチの寸胴鍋が置いてあるところだ。
「わし、なんかおかしいと思ったんや。昼間にラーメン食っといてから三時頃にまたラーメン頼むんやから。で、前からラーメンを手渡そうと思ったそのときや。袖口からいきなりドスを突きつけてきて、金出せって叫びよった。他に二、三人の客がおったんやけどみんなびっくり仰天や」
「なにいうてんのっ。チーフかてびびってたやん。ラーメン落としそうになってたで」
「アホ、わしはとっさにそいつの手首を掴んでスープの中に引きずり込もう思たんや。空本君こそ、わしに向かって警察やって叫んどったやないか。わしはヤク中の腕を掴んでて手が離されへんねんぞ」
げらげらと笑いながら空本が言い返す。
「いや、ほんまチーフの顔めっちゃおもろかったわ。いつも以上に鶏にそっくりやったわ」
「ちょっとちょっと、それ笑いごとやないでしょ。刺されててもおかしない話やで」
「まぁな、ほんまチーフも俺もびびった。警察から追われることはあっても、自分から呼んだことはないし。どうしたらええかわからんもんやからバイクに乗って交番まで行こうと思った」
「ほんま空本君には参るわ。わしが必死で腕を引きずり込んでるのに、バイクのキーを探しとるんやで。わしは言うたんや。一一〇番やってな。それでようやく電話をかけたという有様や」
「毎週どこかで殴り合いの喧嘩してたくせに空本もパニくることがあるんやな」
「ま、そういうことや。でもな、一番慌ててたのはそのシャブ中や。まさかそこに熱々のスープがあるとは思ってなかったんやろな。チーフがスープの中にそいつの腕をおもくそ突っ込んだ瞬間ウギャッーと叫んでもう必死やったわ。で、手を振り払いながらごっついスピードで外へ出て行った。ドス、寸胴鍋の中に落ちとったで」
「でな、何を考えたかそのシャブ中、歩道やのうてイナイチを横切って向こう側へ逃げよったんや」
「ええっ、幅二〇メートルくらいあるで。よくもトラックに轢かれへんかったことやな」。
「キキッーーーっていう急ブレーキの音が聞こえたで。でもな、勝手口から見たら、これが轢かれそうで轢かれへん。岡八郎(一九七〇~一九八〇年頃に活躍した吉本新喜劇の喜劇役者)かカンペイ(間寛平)みたいにおっとっとって感じで身体をくねらせながらなんとか向かいまで渡りきりよったんや。ほんま運のええヤツやで。そのままラジエーター工場の路地へと消えてしもた」
イナイチの向こう側にはJR茨木方面行きのバス停とその前にタバコ屋があり、左へ五〇メートルほど行くと一本の細い路地がある。その角には出前でお世話になっているラジエーター工場があり、その奥が二〇〇メートルほど雑草だらけの寂しい道となる。突き当りは川になっていて堤防の道へと合流する。
「でな、問題は警察や。電話してから何分後に来たと思う。十五分以上もかかったんやで。こっちはドスを目の前にして助けを呼んでるというのに何しに来よったって感じ。ラーメンの出前でも十五分かかったら延び延びや。しかもわざわざ四台で来た。三〇〇メートル先に交番があるのに。知らん顔ばっかりやったから、おそらく茨木署の連中がきたんやろうな」
「警察もイカレタやつを相手にするのは怖いんやろうな。もしそれで俺ら刺されてたら出血多量で死んでるし」
「空本君、あの交番は常連さんでもあるんやから悪口言うたったらアカン。狭い町なんやからくれぐれも言い触らさんように。そりゃ警察や言うても二人なんかできて刺されたら気の毒や。みんなで束になってかかるしかないやろ」
「それで、どうなったんですか。犯人はつかまったんですか」
「つかまるわけがないやろう。十五分もあれば楽に逃げられるって。それよりも現場検証のほうが大げさで。ぎょうさんの警察がきて何回も同じような質問をしてくるんや。こっちは仕込みもせなあかんし。おかげでその日の夜の営業は八時頃からになってしもた」
「ええっー店あけたんですか」
「当たり前やん。こっちは日銭商売や。暖簾を出してなんぼやで」
「以来、そのシャブ中は来てないんですよね。来るわけないか」
「ふん、一応ガッちゃんにも聞いてみたんやけど、少なくとも龍神会にはそんなやつはおらん言うてた。どうせ、その辺をほっつき歩いてる流れもんやろって」
ガッちゃんはチーフよりも上で当時四〇代半ば。身長は一八〇センチあり、片方の小指は第二関節までしかない。色黒でアメリカのソウル歌手ライオネル・リッチーが不機嫌になったような顔である。絶対に人とつるむことはなく、昼の二時頃に一人でやってきて、必ず瓶ビールと餃子、鶏の辛し炒めか炒飯を追加する。店唯一まともな毎日新聞を黙々と読み、交わす言葉は注文と「ごっそさん」だけ。アウトローではあるが、チーフもつい憧れてしまうような男気を感じる人だった。
「チーフ、次またそんなクレイジーなんが来店したらどうします」
「ふん、大丈夫や。最悪ここにはこれがあるからな」と大きな中華包丁に目をやった。
「そんなもん振り下ろしたら腕の一本くらい落としてしまいますよ。過剰防衛もええところで」
「冗談やって。兄弟弟子に佐久間くん言うのがいて、彼は尼崎で商売しとるけど、もし強盗がきたら渡すための金を別に用意してるらしいわ。レジの金は集計があるから渡されへん言うてな。で、店をしまう時もレジを開けといて、中にそのお金を入れとくらしいで。レジって高いから壊されたら困るのでと言ってた」
「でもチーフはレジは開けっ放しで帰るけど金は置いていかへんやん」と空本が突っ込む。
「わしの場合はレジを閉めるんが面倒なだけや。最初から金なんて置いておこうなんて思わへん。そもそもこんなおんぼろ小屋に入ろうなんて思うヤツは何をやってもアカンで。わしやったら他へ行くわい」
「確かにそうやな」と空本と祐介は同時に頷くのであった。
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