24歳、

9

 帰ってくるのが随分早いな、と思ったんだ。


「なに?忘れ物?」


 香澄に向けた俺の笑顔は後に続く人物を認識した途端、凍りついた。


「父さん、母さん……、マネージャーも……」


 悲しみ、不安、困惑、香澄の顔にもそういった感情が張り付いている。


「マネージャー、申し訳ありませんでした」


 両親よりも先にマネージャーに謝罪をしたのは、当然だった。

 仕事に穴を開けた。その事実は謝罪して然るべきもので、心の底から申し訳ないと思っていたのだ。だけど、両親には何を謝ればいいのだろう……。

 姉を愛してしまったこと?姉の普通の幸せをぶち壊して2人で逃げたこと?

 生憎俺は、それに対して謝罪する心を持ち合わせていなかった。


「透……。仕事のことはとりあえず解決している。迷惑をかけたことには変わりないがな……」


 マネージャーの険しい表情や声音の中に、しかし確かに優しさが含まれていた。


「みんなも心配してたよ。あとで連絡いれてやってくれ」


 俺がマネージャーのその言葉に頷いたときだった。


「……どうして」


 地を這うような母さんの声が聞こえた。

 その声に反応した香澄が俺の元へ来ようとするのを、母さんが腕を掴んで阻止する。

 "大丈夫だよ"その意思を含んで俺は香澄に微笑みを向けた。


「その笑顔っ……それはお姉ちゃんに向けるものじゃないでしょ!?」


 怒りに身を任せ声を大きくする母さんを父さんが掴んだ。


「落ち着いて……」

「これが落ち着いていられる!?きょうだいなのよ!!気持ち悪い……」


 吐き捨てるように言われた言葉に俺は笑ってしまった。香澄は俯いたまま肩を震わせた。


「唯一のきょうだいなんだから仲良くしろって散々言ったのは、父さんと母さんじゃん。俺はその言いつけ通りに仲良くしただけだ」

「違うでしょ!誰が駆け落ちするような関係になれって言ったの!?普通の、普通のきょうだい関係を築いてほしいのよ」


 それは無理な話だ。だって俺は一目見たその瞬間に姉さんに恋をしたのだ。最初からあなたの望む世間一般のきょうだいにはなれなかった。

 それは俺の犠牲なしには成立しない関係だった。


「それは無理だよ。だって、俺は最初から好きだった」

「……そう。ならいいわ。香澄は連れて帰るから。もう二度と会わせない」

「やだ、待って。私もなの、私も初めて会った日から透なの、透だけなの」



 そう告げた私に透は驚いた顔を見せて、そのあとすぐに笑った。その笑顔はこの地獄のような部屋の中では不釣り合いなほど、ただただ幸せだけを集めたような微笑みだった。


「香澄まで……やめてちょうだい。あなたはいい子だったじゃない。素直で明るくて……お母さんの支えなのよ……。ねぇ、お父さんからも何か言ってよ」

「お母さん、この手を離して。私は透と一緒にいたいの」


 お母さんの涙に胸が痛くならないわけがない。だけど私は透といたい。透じゃないとダメなのだ。


「許さないわよ!そんな、実のきょうだいで愛し合うなんて、私は許さない……!」

「香澄、透。お前たちにはもっと別の幸せがあるだろう。どうしてこんな、誰も幸せにならないようなことをするんだ……」


 そんなことはもう、とうの昔から何百回、何千回と考えたのだ。それでも私が透を選んだ。透と生きていくことを選んだのだ。


「許さない?誰も幸せにならない?」


 透はさもおかしいと言うように声を上げで笑った。突然の笑い声に部屋がさらに異様な空気に包まれた。空気がぴんと張り裂けそうなほどに張り詰める。


「あんたたちに許してほしいだなんて思ってないし、香澄といられれば俺が幸せなんだよ。理解できないならもう放っておいて?」


 透の瞳はなにも映さない。光も、両親も、マネージャーも。ただ私だけだ。透の瞳は私しか映さない。




 扉を開けると、部屋中の視線が一斉に俺を捉えた。ごくり、と喉が鳴る。


「透、こっちに来なさい」


 そう言ったのは透くんのお父さんだ。心なしか震えた声に心臓がどきりとした。

 歩みを進めた俺に透くんの姿が映った。

 大きな窓枠に足をかけた透くんがこちらを振り返っている。その姿を見て肌が粟立つ。その姿はまるで……。

 透くんは俺の姿を捉えてにこりと笑った。なんの笑みなのだろうか。透くんの無機質な見た目と相まってなんの感情も読み取れなかった。


「瑞樹くん」


 香澄さんの俺を呼ぶ声がここは現実なんだと教えてくれる。

 透くん、ここからどこに行けるというのか。どこに飛び立つというのか。教えてほしい。

 俺はさらに歩みを進めた。透くんはもう俺を見てはいなかった。


「かすみ、ずっと一緒だ、いこう」


 透くんの迷いない透き通った声が響いた。

 透くんは指先まで美しい。関節の目立たないすらりとした指を香澄さんに伸ばして透くんは幸せそうに笑った。

 

 あ、だめだ。そっちに香澄さんを連れて行かないで……!


「香澄さん!戻って来て!俺と、俺と一緒に生きよう!」


 咄嗟に出た俺の言葉に香澄さんが振り向く。

 たしかに微笑んだ。香澄さんは悲しそうな瞳を携えて幸せそうに微笑んだのだ。

 しかし俺が手を伸ばしたときにはもうこちらを見てはいなかった。

 

 香澄さんは透へと手を伸ばす。香澄さんの母親が縋るように香澄さんの腕を引いた。

 

「お母さん、ありがとう。お父さん、ありがとう」


 そう言った香澄さんは俺が今まで見たどの香澄さんよりも美しかった。

 それは覚悟だ。透くんを信じる覚悟。一生添い遂げる覚悟。ここではないどこかへ飛び立つ覚悟。

 するりと腕が抜けた。

 それを捉えた透くんは慈愛に満ちた瞳を向ける。幸せだけだった。そこには幸せしかなかったのだ。


「ずっと一緒だ、愛してる」


「とおるっ!!」


「待ちなさい、香澄!」

「透、やめるんだ!」

「やめろーーーーっ!」




 伸ばした手が透に触れた。

 

 全身が痺れて私の幸せはやはりここにしかないのだとわかってしまった。


 



 

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