24歳、

8

 完全遮光のカーテンは朝になっても光を通さない。常夜灯の微かな明かりが、すぅすぅと寝息を立てている香澄の姿を視認できる程度に浮かび上がらせていた。

 いまだに信じられないのだ。俺の隣に香澄がいることに。夢から覚めたらいなくなってやしないだろうかと、香澄に触れてぬくもりを確かめた。

 頬にあてていた指を頭に滑らしやわやわと髪を撫でると、心地良さに頬を緩めた香澄はゆっくりと目を開けた。


「ごめん、起こした?」

「ううん、起きてた」

「恥ずかしいじゃん!言ってよ」


 2人で笑い合う。それがこんなにも眩しく輝かしいものだと、誰が理解してくれるだろうか。2人でいるときのみ息ができることを、誰が理解できるだろうか。きっと俺たち以外にはわからない。しかし、それでいいのだ。


「今日、買い出しに行ってくるね」


 一頻り笑ったあと、香澄が言った。


「ありがと。俺はマネージャーに電話するよ。あと、メンバーに連絡。今さらだけど……」


 会社にもメンバーにも、俺の活動を支えてくれたすべての人に心から感謝をしているのは紛れもない事実だ。ただこれはもう優先順位の問題であった。


「そうだね、電話番号を変更する前にね」


 香澄は俺の罪を許すように優しく微笑んだ。


 周りに随分と不義理なことをした自覚はある。その仄暗い罪悪感さえ赦してくれる香澄の眼差しは、出会った時から変わらず俺の全てであった。


「ねぇ、キスして」


 再び一緒にいようと誓った日から、香澄はこうしてよくキスをねだるようになった。

 形を確かめるような丁寧なキスも、感情を曝け出すような噛み付くようなキスも、セックスの前戯のような下唇を食むキスも、香澄はうわ言のように「もっと、」とねだった。

 離れていた時間をどうにか埋めようとしているのだろうか。その度にぴたりと重なりあった唇から溶けて、一つに混じり合う錯覚を起こした。


「そういえば、また唇舐めたでしょ、って怒らないの?」


 治らない癖を咎められていた頃の話を持ち出すと、香澄は「そんなこともあったね」と懐かしそうに目を細め、俺の唾液で濡れた唇がより一層魅力的に弧を描いた。


「私、好きなことに気づいたの、透のその癖」


 香澄がそう言ったその時から、俺の治したかった癖は特別なものに変わった。香澄が愛してくれた瞬間、俺の存在は神聖なものに変わったのだ。





 車の中は重くるしい空気に包まれている。大勢で行くのはまずいだろうと、仁くん智宏くんはサブマネージャーと共に会社に残った。

 マネージャーが運転する車には、香澄さんの両親と俺が乗っていた。

 

 俺は是が非でも、所謂楽園に押し入りたかった。そうすることが俺の使命だとすら感じていた。

 今日の夜20時までに香澄さんか、確率はかなり低いが、透くんが出てこなければ警察に連絡をする手筈になっている。

 時間だけが無常に過ぎてゆく中、香澄さんの母親がぽつりと呟いた。


「どうして、香澄と別れたの……同棲までしておいて……」


 失礼極まりないその言葉に怒りを覚えたが、今はそれに構っていられるほど精神的に余裕がなかった。

 父親が必死に俺に謝っているが、それも本当にどうだってよかった。


「あっ……」


 その姿を窓越しに見つけたとき、思わず声がうわずった。俺の声に反応した3人が一斉に窓の外を見る。


「かすみ……」


 うわ言のように名前を呟いた香澄さんの母親が車外の状況を確認せずに飛び出し、父親も後を追った。

 俺は仕事の手前、往来がある道で揉め事を起こすわけにはいかない。だから声も聞こえぬ距離の車内でただただ見つめることしかできなかった。


「ちょっとやばそうだな」


 香澄さんとその両親の揉めようを見て、マネージャーが焦ったようにシートベルトを外しだした。たしかにこのままの勢いで揉めていればいずれ警察がきそうだ。

 連れ戻したい母親と動きたくない香澄さん、双方を宥めようとする父親の姿が見える。


「俺も行ってくるから、瑞樹も状況を見て来れそうなら来い」


 本当は俺に関わってほしくはないのだろう。だが、言っても聞かないとわかっているマネージャーはそう言い残し3人の元へと走り寄った。


 マネージャーが間に入ったことにより、香澄さんはいくらか落ち着きを取り戻したように見えた。しきりにマネージャーに頭を下げるその姿を見て、また抑えきれない感情が湧き上がってくる。

 俺なら、俺ならそんな辛い思いはさせないのに。

 だけど香澄さんにとって何より辛いことは、透くんと一緒にいられないこと。それは俺にはどうすることもできない。だから俺は諦めるしかなかったのだ。

 

 マネージャーと何やら話したあと、香澄さんを先頭にG P Sが示したマンションの方へと向かう4人を見て俺は慌てて車外へと降りた。

 スマホを見るとマネージャーからメッセージがきており、そこには部屋番号が書かれていた。オートロックが閉まったらまずいと急いで後を追うが、時すでに遅し。無常にも共用扉は固く閉ざされていた。

 

 俺は息を吐き、散々見張っていたマンションを見上げる。

 透くんが香澄さんとの楽園に選んだマンションは、飛ぶ鳥を落とす勢いのアイドルである黒岩透が選んだものにしては些か質素に感じた。

 だけど、俺は透くんがここを選んだ理由がなんとなくわかるのだ。

 きっと2人には過度な装飾など不要だった。ただそこにお互いがいて、笑い合う、もうそれだけでよかったのだろう。

 

 扉が開く音が聞こえ顔を下げると、中から人が出てきたところだった。

 俺は俯きながら軽く会釈をし、するりと縫うように扉をくぐった。


 足を進めるたびに鼓動が速くなる。

 どうか、楽園が2人にとって幸せなものでありますように……。

 そう願う他なかった。




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