22歳、

6

 私はいまだにあのネックレスをどうしようもできないでいる。


 私の誕生日から約1ヶ月。仕事柄正月休みなんてものはなく、やっと連休が取れたのが今日だった。

 私は1日に何度も瑞樹くんからもらったネックレスを眺めていた。手に取って太陽の光にあててみたり、鏡の前で首元にあてたり、指先でつついたりと、何度も何度も眺めては手に取ってまた片付けてを繰り返していた。

 暇なわけではない。ただ自分の馬鹿さ加減にほとほと呆れて、後悔しているのだ。



▼▲

 あの誕生日の夜、結局私は瑞樹くんの想いに応えることはできなかった。「やっぱりこれは貰えない」と言った私を見る瑞樹くんの表情は穏やかだった。

 「なんでそんなに苦しい方に行くかなぁ」と次第に目を細めて泣きそうになる瑞樹くんを確かに愛しいと思うのに。

 

「ま、俺も一緒か……。苦しいのに好きでいることをやめられない。……このネックレスは香澄さんの好きにして」


 そう言って私に手を伸ばした瑞樹くんはネックレスを軽く撫でた。微かに触れた指先が私の肌の上を滑る。


「ずっと好きでいるのも、諦めるのも苦しいね」


 瑞樹くんの親指が丁寧に私の涙を拭った。


「泣きたいのは俺の方だよ。でも絶対にまた連絡しちゃうわぁ……諦めが悪くてごめんね」


 私は思いっきり首を横に振った。私はそれに救われているのだ。だけど、傷ついた瑞樹くんを救うのは一体誰なんだろう?

 応えられないのに、他の人には渡したくない。

 困ったように笑う瑞樹くんが「好きだよ」と囁いた。

▲▼



 冷静に考えて、なんであの時「うん」と言って瑞樹くんの胸に飛び込まなかったんだろう?

 あの歌詞が私に宛てたラブレターだって?馬鹿馬鹿しい。

 瑞樹くんからこんなに連絡がこないことは今までなかった。恒例の水曜日にもインターホンは鳴らない。メッセージアプリを開いて文字を打つけど、私から連絡できるはずもなく、ただため息をこぼすだけだ。

 どっちつかずの私だけを残して時間が過ぎていく。


 それでもお腹は空くもので、晩ご飯の準備をしながら食べかけのアイスを口に放り込んだ。一口で食べられる形状のアイスはこういった時に便利だ。

 頼りっきりだったレシピアプリはもうほとんど見ていない。ふとした瞬間に時間の経過を感じて寂しくなる。

 私はまだあの頃の透が与えてくれていた心地良い愛の中に囚われているのだ。

 

 ふと、スマホが震えていることに気づく。もしかして瑞樹くんかもしれない、と濡れた手を服で拭ってスマホを覗き込んだ。


「おかあさん……」


 思わぬ人物に驚く。電話はなにか用事があるときしかしないので、夕方が終わろうとしている時間の着信に瞬時に心当たりを探したが見当もつかなかった。


「もしもし?珍しいね。どうしたの?」

「香澄!おばあちゃんが亡くなったの!」

「えっ!?」



 電車に乗って実家に向かう道中、私はおばあちゃんを思い出していた。

 亡くなったのは父方の祖母。つまり私は幼い頃に会ったことはほとんどなかった。会ったこともお母さんから聞いただけで、記憶には残っていない。両親が再婚をするとなったときに改めて顔を合わせたが、全くピンとこなかったぐらいには覚えていなかった。

 

「ただいま」


 久しぶりに入った実家は懐かしい匂いがする。


「おかえり。元気だったか?」


 そう言って出迎えてくれたお父さんは思ったより元気そうだ。おばあちゃんが以前から病気治療のために入院していたこともあり、覚悟をしていたのかもしれないなと思った。


「元気だよー!」


 私は恋愛ごとがてんで上手くいっていないだけで、その他は至って良好なのだ。


「よかったよ」

「お母さんは?」

「今、喪服の準備してる。あ、ごめん、ちょっと……」


 お父さんは私に断りをいれて電話に出た。恐らく話しの内容的に伯父さんからであろう。私は控えめに「おじゃまします」と言って家に上がった。


 お父さんは電話を切ったすぐ後、葬儀の打ち合わせをするために一足先に伯父さんの家へ向かった。私はお母さんと一緒に晩ご飯を食べている。


「そういえば、透はお葬式には間に合うって」

「そうなんだ」


 お母さんから出た名前にドキリとした。


「連絡とってないの?」


 そこに他意は含まれていないのだろうか。


「私が引っ越してからは全然だねー。実家には帰ってきてないの?」

「一回も帰って来てないわよぉ。帰って来ないどころか、こっちから連絡しなきゃ、近況報告もないわね」


 お母さんは困ったように微笑んでいたが、その微笑みはとても嬉しそうだった。透がアイドルとして活躍していることに安心しているのだろう。それとも心配していた私たちの関係が何事もなかったから喜んでいるのだろうか。


 次の日、夕方から始まるお通夜に向けて私は身支度をしていた。


「透、お通夜には間に合わないけど深夜にこっちに帰って来るって」

「……そうなんだ」


 喪服を纏った姿を全身鏡に映す。黒と片化粧の薄白い唇が顔色をより一層青白く見せた。



 お通夜が終わって実家へと帰ってきた私はお風呂に直行した。

 お父さんとお母さんは伯父さん夫婦と共に寝ずの番の為に斎場に一泊するらしく、今日は私だけがこの家にいる。

 いつもはシャワーだけを浴びてさっさとお風呂場を後にする私だけど、今日は湯船に浸かりたくてスマホを持って入った。


「ふぅ」


 湯船に張られた適温のお湯は私の疲れを包みこんだ。途中になっていたドラマの続きを観ようとスマホを触ると、メッセージが一件届いていることに気づく。


「あ、みずきくん……」


 差出人を見て思わず声が漏れる。


"おばあさんが亡くなったって聞いた。大丈夫?"


 瑞樹くんの甘く優しい声が私の頭の中でそれを読み上げる。

 瑞樹くんは私の蜘蛛の糸なのだ。ぷつりと儚く切れてしまえばまた地獄に逆戻り。逆戻りどころかもう二度と出てこられない。

 蜘蛛の糸が切れたのは利己心と独占欲。それじゃあ、私の蜘蛛の糸はいつ切れてもおかしくないね。

 私はそれに"大丈夫だよ"とだけ返信してスマホを離した。瑞樹くんからの返事はなかった。




 このままじゃ危ないなぁ、と思ってはいたのだ。だけども迫り来る睡魔に勝てる人間がどれほどいるのだろうか。私の脆弱な根性はそもそも勝負を放棄していた。

 ソファが私を離してくれないのだ。これは勝負が始まる以前の問題だった。


 カタンと微かな物音に意識が浮上する。蛍光灯のチカチカとした灯りに思わず再度目を固く瞑った。

 リビングのソファで寝ていたせいで固くなった体を軽く伸ばして起き上がった。まだ寝惚けた頭は見慣れない部屋に「あぁ、ここ実家だ……」と徐々に認識していく。

 あれ、今何時だろ?透が夜中に来るって言ってたな。それまでに部屋に戻ろうと、スマホで時間を確認した。


「12時か……寝よ」


 部屋に戻る途中にお風呂場から明かりが漏れ出ていることに気づく。閉められた扉から微かにシャワーの音が聞こえる。

 透、帰ってたんだ。ソファに寝ていた私に恐らく気づいただろう。だけど、透は私に声をかけなかった。それが透の気持ちを如実に表している気がして、悲しくなった。


 部屋のベッドに入ったけれど、先ほどまで寝ていたからか全く眠たくなくなっていた。仕方ないのでスマホで漫画を読むことにする。瑞樹くんが「面白かったよ」とおすすめしてくれたバスケ漫画だ。

 瑞樹くんと頻繁に会っている時は読む気が起こらなかったのに、会えなくなった途端に読みたくなるなんて……なんというか我ながら現金なやつだなと呆れる。

 私がその漫画を「なにこれめっちゃ面白いじゃん!」と感じ出した頃、隣の部屋の扉が閉まる音が聞こえた。透が入ったのだろう。

 会いたいと思った。だけど透にはその気がない。私から会いにいけるほど厚顔無恥ではない。

 先ほどまであんなに面白いと感じていた漫画も、隣に透の気配を感じてからは読む気が失せてしまった。

 本当はこの夜を期待していた。もしかしたら以前のように話せるのではないかと。だけどそんなことはなかった。透は私のことが好きだったからあんなに優しかったんだな、あれほど気にかけてくれていたのだな、と初めて気づいた。

 惚れた腫れたがなければ関わることすらままならないなんて。




 午前7時。10時からの葬儀に間に合うようにタクシーの手配をする。透を連れて電車に乗ることはかなり憚れたからだ。


 朝ごはんを食べようと台所に立ったとき、扉が開いて寝起きの透が入ってきた。

 あ、ダメだ……泣きそう……。私は透へと向けた視線を慌てて調理台へ戻した。ライブで見たときは平気だったのに、いざ近くで透を見るとあの頃に引き戻された感覚に陥った。アイドル黒岩透ではなく、私が今も引きずっている透だ。


「おはよ」


 涙は引っ込めたが、顔は見られなかった。挨拶をしながらも、私の視線は調理台へ向いたままだ。


「……おはよ。今日何時だっけ?」

「10時からだから、9時にタクシーの手配したよ」

「そうなんだ。ありがと」

「朝ごはんどうする?パンとサラダと目玉焼きぐらいなら作るけど」

「……じゃあ、お願い」

「うん……」


 私たちは3年と半年の間でお互いに随分と大人になったようだった。その証拠に少しの気まずさは残しつつも、思っていたより普通に会話を交わすことができた。


「おまたせ」


 スマホを触っていた透の前にお皿に盛り付けた朝ごはんを置く。


「ありがと。いただきます」


 私が着席するのを待って2人で食べ始めた。あの日々と何ら変わりのない光景だ。ただ会話がないだけ。


「あ、そういえばこの前ライブを観にいったんだよ。後輩の子と一緒に」


 沈黙に耐えられず私が発した言葉に透は目を丸くした。


「東京の?」

「そう、東京の2日目。アンコールで歌った、透が作詞したって曲、あれが印象に残ってる」

「ここではないどこかへ」

「そう、そ、れ……」


 不意に交わった視線に私の心臓は締め付けられたかのように苦しくなった。

 私を好きだった透はもういない。もういないのだ。


 不謹慎だが、喪服も様になるのだなぁと透を見て思った。セットされていない目にかかりそうな前髪が、憂いを帯びた顔にさらに影を作り、より一層儚く見えた。

 私はほぼ面識がないのだが、透は小さい頃からおばあちゃんによく面倒を見てもらっていたらしかった。

 病気で入院していたとはいえ、おばあちゃんはあと少しで90歳にもなろうかという高齢で、世に言う大往生というやつだ。お葬式に湿っぽい空気はあまりなく、それどころか透の存在に浮き足立つ参列者もいるくらいだった。


 火葬の間、伯父さん夫婦の娘、つまり私たちの従妹である女の子が透に話しかけてきた。


「透くん、サインってもらえますか?」


 透は少し困ったように眉を下げ「お葬式の後なら」と返事をした。


 その言葉通り、収骨が終わった14時過ぎにサイン色紙を持って現れた美優ちゃんは、透にかわいい笑顔で再度お願いをしていた。

 この2人は血縁関係でありながら、結婚もできるんだもんなぁ……うらやましい……自然と湧き上がる羨望に私はすぐに蓋をした。

 アイドル黒岩透として接する姿を見て心底安心している私にも辟易する。





 「今日、この後仕事があるから」


 透は葬儀が終わったその足で自宅へと帰って行った。

 忙しくてなによりです。透は私に目も合わせてくれなかった。

 

 私は今回のお葬式を、故人を悼む場より透に再び会える場と認識していたことに今更気がついた。そして透の中で私の存在が完璧に過去の物になっていることを突きつけられ、自分勝手に傷つき悲しんでいるのだ。

 救いようがないと思った。私は救いようのない愚か者なのだ。

 ただ今回、透が前を向いていることを明確に突きつけられたことにより、私も前を向こうと思った。やっと向けると思った。

 何度も行ったり来たりしてしまったけれど、もう本当に振り返らない。


 私も自分の家に帰ろう。本当に心から瑞樹くんと向き合おう。

 引き出しで寂しく待っているであろうネックレスをつけるために、帰ろう。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る