18歳、

5

 祝勝会から俺は気が気でなかった。智宏が言った「お似合いだよね」という言葉。瑞樹が言った「仁くんは気に入ってるんじゃない?」という言葉。あの時は曖昧に流すしかなかったが、実際に俺も感じていた雰囲気を第三者に言葉にされることにより、まざまざと突きつけられたのである。

 しかし俺の心配とは裏腹に仁くんと姉さんが連絡を取り合っている様子も、お互いが気にし合っている様子もなかった。心配しすぎだったかな……姉さんのことになるとコントロールできなくなる自分の感情に俺自身も疲れていた。

 弟との恋愛関係を進展させる道を選んでくれたんだ。それは相当の覚悟がいったことだろう。そのことを考えると俺の心は満たされたし、その選択をしてくれた姉さんの俺への気持ちを信じようと思った。

 気持ちを切り替えるように深呼吸をしたとき、トントントンと控えめに部屋の扉がノックされた。「はい」と返事をしながら扉を開けると、姉さんがスマホ画面を俺に向けて見せた。


「お母さんが来るって、今度の月曜日。透は仕事入ってたもんね?」


 姉さんのスマホ画面には母さんからのメッセージが映し出されていた。


「えっと、月曜……次の姉さんの休みか、そうだね、雑誌の撮影が入ってた」


 ちょうど昨日、なかなか休みが合わないね、と2人のスケジュールを照らし合わせていたところだった。月曜日の予定を思い返しながら話すと、姉さんは「そうだよね」と言った。

 その声音は、秘密の関係を続ける2人で母さんに会わなくてよかった安堵のようにも、また、秘密を隠さなければいけない母さんに1人で会うことへの不安のようにも感じられ、なんと返答すればいいのか分からなかった。


「大丈夫?」


 そう聞いて、すぐにしまったと思った。こんな聞き方、「大丈夫」と返すしかないだろうと。すぐに言い直そうとしたが、それよりも早く「大丈夫だよ」と姉さんが笑った。



「なにかあれば連絡して。たぶん19時には帰って来られると思うから」

「大丈夫だよ。お母さんに会うだけだよ」


 月曜日。姉さんはなんでもない風に笑ったけれど、俺の心はざわざわと嫌な予感でいっぱいだった。




 お母さんが来るまでに家の掃除を終わらせて一息ついた。朝、仕事に行く透に「お母さんに会うだけだよ」と言った。それは嘘ではなく、紛れもない事実だ。家をぐるりと見回しても、これといって私たちの関係が露呈するようなものはなかった。

 大丈夫。だって同じ家で暮らしながらセックスしてたんだよ……と今考えればかなり危ない橋を渡っていた当時を思い出す。といっても、つい3、4ヶ月前までのことだけど。

 本当によくバレなかったよね……。離れて冷静になってみるとその事実が恐ろしく、背筋が冷えた。

 喉が渇いたなぁ。水でも飲もうと食器棚からお気に入りのカップを取り出したときに、ピンポーンと来客を告げるインターホンが鳴った。


「はーい」


 インターホンパネルで確認すると、やはりお母さんでエントランスのオートロックを解除する。なんだかんだ悩みつつも、久しぶりに会えるお母さんの姿を心待ちにしていた。


 再度呼び出し音が鳴る。今度は玄関のインターホンを押した音だろう。念のためパネルで確認をしてから「いらっしゃい」と扉を開けた。


「ちゃんと掃除してるじゃない」


 それが久しぶりに会う娘への第一声だった。「そりゃねー」となんでもない風に振る舞いながら、玄関まで掃除をしておいて良かったと胸を撫で下ろした。


「これ、お土産。あとで一緒に食べよう」


 お母さんが少し上に持ち上げた袋は、私の大好きなケーキ屋さんのものだった。


「やったー!ありがとう」


 両親の再婚で引っ越してきた5年前からずっと大好きだったケーキ屋さんで、最近また食べたいなと思っていた。苺と桃のムースケーキが絶品なのだ。

 お母さんからケーキを受け取りそれを傾かないように丁寧に冷蔵庫にしまった。


「透は仕事なのよね?会いたかったわ」

「お母さんが急すぎるんだよ。まぁ、透の仕事の都合に合わせた方が会えると思うよ」

「そう?まぁ、忙しいのはいいことだけどね」


 お母さんは嬉しそうに笑う。やっぱり息子が不安定な職業に就くことを心配していたのだなと感じた。


 お昼ごはんはパスタを作った。フライパン一つで作れるクリームパスタだ。もちろん引き続き絶大な信頼を寄せているレシピアプリの手順と分量をきっちりと守った。


「香澄が料理するなんてねぇ」


 パスタを一口食べるたびに「美味しい、美味しい」と口にするお母さんの顔の綻びにくすぐったさを覚える。「いつまでも子供じゃないんだから」と照れ隠しに言った私に、「あら、いつまでも子供よ」と微笑むお母さんを見て胸の奥がつきりと傷んだ。


 これこれ、この苺の酸味と上に乗ったクリームの甘味のバランスが最高なんだよね。久しぶりに食べたムースケーキは変わらず私を幸せにしてくれた。


「透の分も買ってきてるからね」

「うん。ありがと。帰ってきたら食べさせるよ」


 お母さんの口から出る透の名前に苦しくなる。


「そういえば、晩ご飯はどうする?」

「うーん、お父さんが帰って来るまでには家に着いておきたいからねぇ。透は何時ごろに帰って来るんだっけ?」

「昨日聞いたときは19時って言ってたけど」


 19時じゃあ無理だろうな。だいたい19時20分頃に帰宅していたお父さんのことを思い出す。


「ぎりぎりまで粘ろうかな」

「それならもう会って行きなよ。お父さんには連絡してさ」

「たしかにそうね」


 そう言ってスマホを出したお母さんはどうやらお父さんに連絡を入れているようだった。


 「顔を見たら帰るわ」と言ったお母さんにもう一杯コーヒーのおかわりを入れて、尽きない話を楽しんだ。




 早ければそろそろ透が帰って来る頃だろうか。時間を確認している私にお母さんが、「そういえば彼氏はできたの?」と聞いてきた。

 学生のときにはこの手の話をした記憶がなかったため、驚きに固まったあと、冷や汗が背中を伝った。これは早めに切り上げた方がいい話だと瞬時に気づく。


「いないけど……というか、その話はお終い。そういうことは触れずにほっといて!」


 少し怒りの感情を滲ませれば引いてくれるだろうと思っていた。しかし、私の思惑通りにはいかず、お母さんは優しく話しだした。それは昔、寝る前に絵本を読んでくれたときの声色。抱きつきながらお母さんの顔を見上げたときに目に入った、愛おしげな眼差し。今まで最大限に受け取ってきた無償の愛そのものだった。


「親はいつだって、いつまでだって子供のことが心配なのよ。彼氏がいなくても幸せです!人生楽しい!って顔してたらお母さんだって心配しないわよ」


 ふ、と一呼吸置いて。「香澄の横顔がなんだか寂しそうで」とお母さんはさらに目尻を下げた。


 肥大した罪悪感がにょきにょきと存在感を露わにする。これを私一人で耐えきれそうになくて、今すぐ透に縋りつきたかった。だけど透はまだ帰ってこない。"両親が死ぬまで隠し通すこと"今一度私の責務を思い返し、唇をきゅっと固く結んだ。


「彼氏がいなくても幸せ!人生たーのしー!」

「姉さん、何言ってんの?」


 ここは明るくおちゃらけようと意を決し、大袈裟な声でお母さんの欲しい言葉をなぞり終えたときだった。本当は「もう、ほんとにあなたは……」と諦めにも似た笑顔をお母さんがくれるところだった。しかしどうだろう。私に与えられたのは、確実に引いている透の声だった。

 これは引いている。所謂ドン引きというやつだ。苦虫を噛み潰したよう、としか形容できない表情をした透はため息を吐いた。


「久しぶり、母さん。待っててくれたの?」

「お疲れ、透。そうなのよ。会えてよかった。仕事はどう?順調?」


 どうやら私はいないものとして話を進めていくみたいだ。はい、それならそれでいいです。なんなら話題が逸れたので助かりました。

 楽しそうに笑い合う2人を見ても、嬉しくなるどころか、いつバレるだろうか、ボロは出ないだろうかとヒヤヒヤしている自分に少し嫌悪した。




「透の顔も見れたし、そろそろ帰るわ」


 お母さんがそう言いながら椅子から立ち上がった。


「あなた達が仲良くやっていけてるところを見て安心したわ」


 心の底から嬉しそうな笑顔だ。再婚当時、私たちが良い関係を築いていけるかと心配していたお母さんが頭に浮かんだ。


「心配しなくても大丈夫だよ。俺たち相性がいいみたい」


 透の言葉選びにハラハラする。


「あっ!そういえば、さっきお母さんが美味しいって言ってたコーヒー持って帰ってよ!私も透もコーヒー飲まないから」


 しんみりとした空気を切り裂くようにとびっきり明るい声を出した。


「ほんと?じゃあ、有り難くいただこうかしら」


 語尾に音符がついていそうなほど、お母さんは喜んでくれた。


「待ってね。今取るから」


 普段コーヒーを飲まないので、貰い物のコーヒーは踏み台を使わなければ取れない高いところにしまってある。

 ここで私の無精な性格が本領発揮した。リビングに置いていない踏み台を取りに行くのが面倒で、ダイニングチェアを踏み台代わりにしようとしたのだ。もちろん今日のおやつの時に出したコーヒーもこうして取った。


「姉さん、それ危ないから俺が取るよ」


 過保護な透は私の両肩に手を置き、私をダイニングチェアの正面からずらした。


「ごめん……ありがとう」


 途端に自分の無精な性格が恥ずかしいやら、大切にされていることが嬉しいやらで顔に熱が集中するのを感じた。誤魔化すように髪の毛を耳にかけながら笑うと、透が「姉さん、耳まで真っ赤だ」と手を伸ばす。

 あ、それはだめだ……咄嗟に避けた私に透が傷ついた目をしてみせた。でも今の行動はさすがに……心の中で「ごめん」と謝り、急いでお母さんの様子を確認する。私たちを見ながらニコニコと笑っているお母さんを見て、ほっと安心するところなのに、何故だか薄ら寒さを覚えた。




 お母さんを最寄り駅まで送っている道すがら、私は辟易していた。「一緒に送って行くよ」と言った透の提案を断ったのは私にこの話をするためだな……。


「良い人紹介してらおうか?ほら、近所の村上さんて覚えてるでしょ?あの人顔が広いから良い人紹介してくれるみたいよ」


 先程流れたと思った彼氏云々の話は強烈な進化を遂げて私の元へと舞い戻ってきた。


「さっきも言ったと思うけど、それはほっといてほしいの」


 それなら致し方なしという理由がないと納得しないのだろうか。私は分かり易くため息を吐いた。そんな私を見たお母さんは、もうどうしようもないと思ったのか、一呼吸置いて私の手を握った。


「親や周りの大切な人に言えない相手と付き合うことだけはやめてね。香澄なら大丈夫だと思うけど。透はこうと決めたら周りが見えなくなる子だから、香澄からもよく言って聞かせて。お母さんあなたたちを信じてるわよ」


 これは牽制なのだろうか。私を見つめるお母さんの瞳からは感情が一切漏れ出ていなかった。握られた手がじとりと汗をかいた。顔は強張っていないだろうか。


「なにそれ。大丈夫だよ……。それに私好きな人がいるから」


 咄嗟についた嘘にお母さんは目を輝かせ「早く言ってよ!誰?職場の人?」と嬉々とした声を上げた。

 誰?誰と聞かれても……パッと頭に浮かんだ仁くんの顔を掻き消す。だめだめ。


「職場の人じゃないよ」


 これは相手まで言わないと納得してくれないパターンなの?


「えー、じゃあ誰だろ……大学の時の友達とか?」


 あ、はい。そのパターンですね。次第に圧を強くするお母さんにたじろぎながら口からポロッと零れたのは「瑞樹くん……?」だった。



 あの後「だから言えなかったのねー!彼まだ高校生だしね、しかもアイドルだし。でもお母さんは応援してるわよ!」と自分勝手に納得し、「電車の時間だから帰るわ!」と瞬く間に消えて行った姿に呆気に取られたまま私は家へ急いでいた。


 とりあえず納得してくれてよかったと。あと、瑞樹くん本当にごめんと。そして何より母の勘の鋭さへの恐怖に、感情が忙しく動き回っていた。


「おかえり」


 私が「ただいま」を言う前に透が出迎えてくれた。きっとずっとここで待っていてくれたんだな。


「顔が疲れてる。もしかして駅までに彼氏がどうとかって話された?」


 それどころか、もっと大きな爆弾を落とされたし、私も落としてしまった。私が端的に話すと透も顔を引き攣らせた。


「たぶん俺のせいだわ、ごめん」


 全くその通りだと思ったが、私も嬉しくなって頬を染めていた自覚がある。「誰のせいとかないよ。2人の問題だから」と言った言葉。それは本心だった。


「それよりも瑞樹くんに迷惑かからないといいけど」

「……なんで瑞樹って言ったの?」


 そう聞いてきた透の声と目には嫉妬の色が多分に含まれていた。


「高校生でアイドルだと、お母さんも協力できないだろうし、上手くいかない言い訳も思いつきやすいかなーって」

「ふぅん……」


 本当はおもしろくないのだろう。だけど自分の否を認めている透はそれ以上食い下がってはこなかった。


「それにしても……ふふっ……」


 何もおかしいことなんてないのに、なぜだか笑みが零れる。


「お母さんに会うのにこんなふうに罪悪感を抱えて、胃が痛くなるまで緊張するっておかしいね。改めて私たちの罪の深さを知ったよ」


 何もおかしいことなんてない。だけど笑っていないと心がどうにかなってしまいそうなのだ。







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