17歳、

4

 制服のズボンをハンガーに掛けようと逆さにした時にふわりと落ちた紙を、姉さんが拾って俺に渡す。


「落ちたよ」


 折り畳まれたそれは中身を見なくても女の子から貰いましたとわかってしまうほど、柔らかなピンク色をしていた。


「あぁ、ほんとだ。ありがとう」

「もしかして、女の子から?」


 俺の手に渡ったピンク色に視線をやりながら、姉さんは遠慮気味に聞いてきた。「まぁ……」と曖昧な返事をした俺に、「もしかして彼女!?」と姉さんの驚いた大きな声が届く。

 そんなわけないだろ、と即座に否定しそうになった自分に待ったをかけた。ここで曖昧な返事をすれば姉さんはどんな反応をするのだろうか。万が一、少しでもいいからつまらなそうな反応をしてくれたら……俺は思い出すだけで心が沸き立つ思い出を手に入れられるんじゃないだろうか。

 改めて考えるとそれぐらいの思い出を後生大事に胸にしまっておくだなんて哀れにも程がある。それに頑張ってもどうにもならないことに、もしかして、と期待をして一生を終えることこそ地獄ではないだろうか。

 わかっている。哀れなことも地獄なことも。それでも俺の存在が姉さんの感情を揺さぶることができたら。もうそれだけでよかった。


「うーん……」


 意味ありげに微笑んだ俺を見て、姉さんの目が一瞬曇る。あれ、これは本当にもしかして、と期待が頭をもたげる。


「……ほんとに彼女できたの?」

「って言ったらどーする?」

「もうすぐデビューなのに?」


 悲しげに下げられた眉はいったいどんな意味を含んでいるのだろう。仕事に対する自覚が希薄な行動に家族として咎めているのだろうか。それともそれは、姉さんが初めて見せた1人の女としての独占欲なのだろうか。


 姉さん、知ってる?嫉妬は緑の目をした怪物らしいよ。俺はそいつをあなたに出会ったあの日から飼ってるんだ。

 姉さん、姉さん。もしあなたもそうなら、その潤んだ黒い瞳に宿る緑色を見せてほしい。俺はそれすらも愛すよ。




 しまった、と思った。

 今までひた隠しにしていたそれが私の意志に反抗した瞬間だった。透の手に握られたピンク色の紙が、その向こうにいるであろう穢れなくただ純粋に好きだと伝えられる存在を主張していた。その強烈に主張してくる、顔も名前も知らない女の子がたまらなく羨ましかった。嫉妬した。

 大丈夫だ。まだ軌道修正できる。家族としての苦言だと。一つ深呼吸をして、またいつものように何も知らない姉を演じればいい。


「姉さん……」


 そんなふうに切なげな声で呼ばないで。弟からの男としての好意に気づかないふりをさせてほしい。

 やめて、そんな目で見ないで。地獄に堕ちてもかまわないというその意志を含んだ目で見ないで。私はまだそちら側に行く決心ができていない。

 



▼▲2年前▲▼

 あの時には既に好きだったのか、と気づいたのは随分経ってからだった。


「透も高校生か……」

「本当によく似合ってる」


 真新しい制服を纏った透を見て父と母が涙ぐむ。齢15歳にして既に身長178センチの透はシンプルな黒の学ランを見事に着こなしていた。制服に着られてるねぇ、ってのが新入生の醍醐味じゃないの?初めて会った日からほぼ2年、その月日をまるっと成長にあてた透は息をのむほどに美しくなっていた。

 ぼう、と神々しくすら感じる立ち姿を見ていると透が恥ずかしそうに私を見た。


「どう?姉さん」


 くいっと顎を上げてポーズをとった後、照れを隠すようにニコリと笑った透を見て時が止まった。どきんと大きく拍動した心臓が痛かった。


「めっちゃモテそう……」

「ふはっ…!なにそれ!!」

「ほんとに、ほんとに!……めちゃくちゃ似合ってる」


 率直な感想を伝えると透は一際嬉しそうに笑った。それは今にも蕩けてしまいそうなほどの甘い笑顔だった。





 そんな入学式から1ヶ月ほど経った日。

 友達とショッピングを楽しんだ後、早々に家に帰った私は玄関に見慣れない靴を見つけ、控えめに「ただいま」と言った。

 ガチャリとリビングの扉を開けると透の「おかえり」と言う声のあとに「お邪魔してます」と言う明るい声が続いた。


「あ、智宏くんか……久しぶりだね。ただいま」


 透と所謂幼なじみという間柄の智宏くんは私が唯一面識のある透の友達だった。


「なに?買い物?」


 両手に下げられたショッピングバッグを見た透の質問に「そう、いっぱい買っちゃった」と照れ笑いを浮かべる。


 「2人はゲーム?」


 そう聞くと「香澄さんも一緒にしません?」と智宏くんが誘ってくれた。2人がしているゲームは少し古いもので、私も昔したことがあった。懐かしさと好奇心に誘われ、「楽しそう。やろうかな」と答えると透は面白くなさそうにふいと顔を逸らした。

 

「やったー!透が強すぎて、俺つまんなかったんすよ」


 と無邪気に笑う智宏くんが透がいる左側にずれて、スペースを作ってくれる。ん?若干失礼じゃない?と気になりつつもそのスペースに腰を下ろした。

 邪魔しちゃ悪かったかな……透の反応を見て申し訳なく感じたが、既に乗り気の智宏くんを無下にはできなかった。

 ごめん、透。お姉ちゃんは弟よりも弟の大事な友達の方をとるよ。私は弟の友達に"お前の姉ちゃんって優しいよなぁ"って言われたいの!

 自分の俗っぽい思惑に少なからずバカバカしさを感じながらコントローラーを持とうとした時「姉さん、こっちにおいで」と自分の左隣のスペースを指差した透に手招きをされた。

 なんで?その疑問は有無を言わせない透の鋭い視線に弾かれて音にならなかった。


「俺の方が上手いから。俺が教えてあげる」


 うっ……なんかその言い方やらしい。弟に性的な魅力を感じるなんてどうかしてる。そう思いながらも透の視線に気圧され、大人しく左隣に腰を下ろした。




「待って!智宏くん、攻撃しないでー!」

「だめだめ、俺は容赦しません!優しくないので!」


 勝利者を称える音楽が鳴り、先程まで智宏が動かしていたキャラクターが腕を突き上げ、勝利した自分を称える姿がテレビ画面に映し出された。

 悔しい……さっきから3戦すべて黒星。


「やっば。さっきまで負け続けてたから……楽しい!香澄さん、もう一戦!」

「もうしないでーす」


 やっぱり透に勝てないストレスを私で発散しようと誘ったんだなぁ……!恨みがましく視線を投げ唇を尖らせた私に智宏くんはばつが悪そうに笑った。


「俺が姉さんの仇を討ってあげましょう」


 出た。意地悪く片方の口角と眉毛を上げる透の表情。そしてちろりと赤い舌が覗いたかと思えば下唇を軽く舐めた。まただ……またこうやって弟にドキドキしてしまう。


「お願いいたします」


 その心を隠すように、仰々しい言葉と態度でコントローラーを透に献上した。


「また透のターンじゃん」


 すると、ぷぅと片頬を膨らませた智宏くんの面白くなさそうな声に被せるように透のスマホが着信を知らせた。

 ちらりと発信者の名前を確認した透は僅かにため息を吐き、スマホを持ち上げると「ごめん、ちょっと……」とリビングを後にした。

 私にも見えてしまった。確実に女の子だとわかる名前だった。この湧き上がる感情はなんだろうか。苦しい。誰のものにもならないでと、弟に願うことはきっと正しい道から外れている。それだけが今わかる唯一の正解だった。


「女の子……ぽかったね?」


 えへへ、と自分の表立って言えない感情を隠すように笑うと智宏くんは私が気にしていることを察したのだろう。深刻にならぬよう優しい声音で話しだした。


「たぶんクラスの女子ですね。同じ委員会で、透のこと好きっぽい子だと……。ほら、透モテるから。中学の時からそうだったでしょ?」

「そうだね」


 微笑み返しながらほんの数ヶ月前のことを思い返す。バレンタインデーに家までチョコレートを持ってきた女の子を。卒業式の日、インターホンを鳴らした女の子を。

 透が言わなくてもモテることは伝わってきた。その度に透を誇らしく思うどころか焦燥を感じていたのだ。気づかないふりをしていた。気づいてしまえば溢れてしまいそうだったから。どうにもならない恋心は深く深く埋めて、私さえも忘れてしまえばいいと思っていた。

 だってそれを拾い上げたところで、透には伝えられない。どれだけ時間をかけて大切に育んでもいつかは枯らすしかない気持ちを、慈しんでも仕方ないじゃない。

 あぁ、そうか。私ってばもうとっくに好きだったんだ。透の鋭い三白眼に射抜かれたあの日から好きだったんだ。




「ごめん。クラスメイトからだった」


 智宏くんが言った通りだった。通話を終えた透はもうゲームの続きをする気はないようで、「ジュース飲む?オレンジ」と冷蔵庫の扉を開けた。


「いや、俺そろそろ帰るわ!」

「そうか」


 智宏くんがそう言うので、透は先程開けた扉を閉め、「久しぶりにゲーム楽しかったな」と笑いかけた。好きだと改めて自覚してしまえば、友達に笑いかける何気ない表情にさえ苦しくなった。

 透と2人で智宏くんを見送り、家に2人きり。なんだか急に緊張してきて、今までどう接してきたのかがわからなくなった。


「姉さん」

「ひゃいっ……!」

「……ひゃいってなんなの」


 急に呼ぶから……。肩が跳ね上がるほど驚いた私を見て透が口を開けて笑った。あ、ここまで笑うの珍しいな。表情が乏しいわけではないが、大笑いをすることが少ない透の新鮮な表情に胸がときめいた。鼻の上にできる皺が愛おしいな。

 ひとしきり笑うと、「ジュース飲む?」と聞いてきた。どうやら透が飲みたいようだ。


「ううん、いらない」


 なんだか胸がいっぱいで苦しくて。そしてこれからの私の恋心の行く末を思うと、哀れで仕方なくて。喉を通らなさそうだった。

 「そ?俺は飲もーっと」ご機嫌に鼻歌を歌いながりコップにオレンジジュースを注ぐ背中が愛おしい。ひっそりと想うぐらいは赦されるだろうか。それなら私以外誰も傷つけないだろうか。


「姉さん、なんかあった?智宏と」

「え?」


 あまりにも脈絡なく投げかけられた言葉に時が止まった。智宏くん?なんで?

 表情に出ていたのだろう。コップを下唇に当てたまま、透は「いや」と首を横に振った。


「リビングに帰ってきたら、姉さんの元気がない気がしたから」


 その切なげに細められた目に捉えられて、私はなにも言えなくなってしまった。その目は、その愛おしげな視線は姉に対して向けるものなの?

 自分の恋心を自覚した途端、透からの好意にも敏感になったのだろうか。もしも想いを告げれば、この恋心を枯らすことなく、その先を望めるのだろうか。

 だめだ。それはだめだ。私は全てを傷つけ、全てを手放す覚悟なんて到底できそうにない。

 透、ごめんね。私は自分の恋心にも、透のそれにも気づかないふりをするよ。

 他の誰も傷つけない代わりに、私と透、2人だけが叶わない恋に傷つこう。それが一緒に地獄に堕ちるということだよ。

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