17歳、

3

 翌日の朝も姉さんと顔を合わせることはなかった。俺が避けて朝早く家を出たこともあるが、そもそも大学生と高校生とじゃ生活時間も微妙にずれているので、いつも通りといえばいつも通りなのだが。

 5月の朝はまだ少し肌寒い。本当は冬服の方がいいのだろうが、昼は暑いし、なにより合服期間にのみ着ける深緑のネクタイが好きなので移行期間が始まると同時に着替えることが常だった。



「あれ、早いじゃん」

 教室に入ってきたと同時に俺を見つけた智宏は驚いた顔をしながらそう言った。


「そんな変わんねぇだろ」

「んなことねぇよ。いつも俺のが早いじゃん」


 「微々たる差だろ」と首を傾けた俺に智宏は「まぁな」と無邪気に笑った。

 最近色気が出てきたよな、と事務所の人に評されることが多くなった智宏だが、大きな口で目がなくなるほど楽しそうに笑う顔は小学生の頃から変わっていない。進学だ就職だと将来の選択を迫られ、時にはもう大人だと背伸びをし、そう思えばまだ子供なんだからと責任転嫁をする。こう生きていこう、こうなろうと描いた将来像と比較して絶望しては、それでも自分ならと希望をかき集める。毎日もがきながら手探りで生きている俺にとって、ただ無邪気に、心の底からこの世界の全てを愛していた頃から変わらない智宏の笑顔は気を休めてくれるものだった。

 

 自分の席に重そうな通学カバンを置き終えた智宏ともうすぐ発売されるゲームについて談笑をしていると、「おっはよー」と挨拶をされた。こいつは智宏と共に仲良くしている斎藤という友達で、些か軽薄なところもあるがそれを余りある愛嬌でカバーしている所謂"憎めない人"を地で行く奴である。


「おすー」

「はよ」


 俺たちの挨拶はそもそも聞く気がなかったのだろう。半ば被せるように「めっちゃいいオカズをみつけた」とニヤニヤと下品な笑みを浮かべ、軽くヒビが入ったスマホの画面を顔の横でチラつかせた。


「興味なーし」


 斎藤が下ネタを話すときはかなりどぎつい内容だとわかっている俺は、用無しという意味を込めて手を振った。こんな爽やかな朝に、誰が聞いているかもわからない教室で話す内容じゃないだろ。


「はいはい。透くんはむっつりですもんねぇ」


 俺がそう言うことはわかっていたのだろう、はなからお前には期待してねーよ、という風に斎藤は顎を上げた。腹が立つ顔だ。


「でも優しい智宏くんは俺の話、聞いてくれるよねぇ?」

「ずっるい言い方ぁ!」


 智宏はまたあの笑顔を浮かべ、「仕方がないなぁ」と斎藤のスマホ画面を覗き込んだ。「そうこなくっちゃ」勝ち誇った顔を俺に見せた斎藤が声を弾ませた。


「あんま甘やかすなよ」

「聞こえませーん」


 "お前に言ったんじゃねぇよ"と斎藤を睨みつけたが、当の本人はどこ吹く風で、智宏と頬を合わせて画面に集中していた。

 

 動画は短いもので、見終わった智宏は「お前、ほんと趣味悪い」と斎藤の嗜好に拒否反応を示した。ふん、ざまぁないな。

 しかしそんな反応も織り込み済みだったのだろう。自分の嗜好を拒絶されたにも関わらず斎藤は全く気にしていない様子だった。


「まぁね、ちょっと玄人向けの内容だから。おこちゃまな智宏くんにはわからないでしょう」


 得意げに笑うな。俺は適当に「そうね」と返事をした。


「にしてもさ、斎藤の無理なジャンルってあるの?」


 智宏が空気を変えようと努めて明るく聞くと、斎藤は顎に手を当てて大袈裟に唸った。しばしの沈黙の後、「あ、」と声を出す。どうやら閃いたようだ。


 「近親相姦」


 ぽとりと落とされたその言葉に時が止まった。


「え、意外!!割とメジャーなジャンルじゃない?」

「俺妹いるからかな……無理なんだよね」

「あぁ、2個下だっけ?同じ高校だよな。そっか……たしかに。俺は弟しかいないからなぁ」


 2人の会話が遠くで聞こえる。そうか、そうだよな、それが正常なきょうだいの関係性だよな。この会話に入っていなくてよかったと思った。もし入っていたら、俺の化けの皮が剥がれていたかもしれない。


「でも、透みたいに再婚でできた姉ちゃんならありだよなぁ」

「おいっ、それは……」


 斎藤の下品は物言いに智宏が止めに入った。


「ねぇよ」


 苛立ちを抑えて笑顔まで添えた俺を褒めてほしい。「そんなもんか」と興味をなくした斎藤は先程俺たちが話していた発売間近のゲームへと話題を変えた。




 昼休み。

 食堂にある購買で焼きそばとコロッケパンを買って、まだうだうだと悩みながら昼食を選んでいる智宏と斎藤を待っていた。他の生徒の邪魔にならないように、食堂を出た右側にある自動販売機の奥のベンチのそのまた奥にあるトタン屋根の支柱に寄りかかった。

 あいつらほんと悩み出すと長いんだよな……。4時限目の授業が早く終わったから、せっかく人が少なくて、種類も豊富なうちに購買に来れたのに。その種類の豊富さが仇となり、いつもより長い時間悩んでいるようだった。まばらだった生徒も気がつけばいつもと同じぐらいに増えていた。

 そろそろだろうと、支柱から背中を離し食堂の出入り口に足を向けたその時、「黒岩くん」と呼ばれた声がして、その声が聞こえた右側に顔を向けた。


 「はい?」


 知らない人にもとびっきりの笑顔を返してしまうのは、もう職業病と言っても差し支えない気がする。反射的ににこりとしてしまうのだ。顔を赤らめた女子生徒は言いにくそうにもじもじとし、スカートをぎゅっと握った。あ、これはまずいやつだ。気づかれない程に細く息を吐きふと視線を上げると、ニヤニヤとこちらを見ている智宏と斎藤が目に入った。

 そもそも2人が遅いからこんなことに……忌々しげな表情は表に出さず、先程からスカートを握りしめ続けている彼女に「どうしたんですか?」と問いかけながら、女子生徒の合服の胸ポケットに施されている校章の刺繍糸の色を確認した。

 緑だから俺と同じ学年か……見たことないな。そこまで大きな高校でもないと思うが、中学に比べると生徒数は3倍程増えており、把握していない生徒の方が当たり前に多かった。


「あの、これ、連絡先です。よかったらお友達になってください」


 連絡先が書かれているであろう紙をずいと半ば無理矢理に渡すだけ渡した彼女は、ぺこりと頭を下げて踵を返し、急いで走って行ってしまった。

手とスカートの間で握りつぶされてクシャクシャになってしまったその紙を見て口元が緩む。俺はうぶで不器用そうな子をかわいいと思う俗な男なのだ。


「見ちゃいましたぁ」

「相変わらずモテますねぇ」


 先程の子の姿が見えなくなったと同時に、待ってましたと言わんばかりの声が届いた。「おっそいわ」それには反応せずに文句を言うと、2人は「お待たせ」と申し訳なさそうに俺へコーラを差し出した。どうやらお詫びの品らしい。


「おー、さんきゅ」


 遠慮なく受け取れるのは気心の知れた2人からだからだ。


「で、どうすんの?」


 珍しく智宏が話を進めた。恋や猥談の話を積極的に進めるのは斎藤と決まっているからだ。


「やぁ、友達になってくださいだからなぁ……どうすりゃいいの?」


 付き合ってください、なら断っていた。俺は姉さん以外を好きになれるとは思っていないし、それに来年にはデビューを控えている。バタバタと忙しくなるこの時期に余計なことは持ち込みたくなかった。……余計なことってのは酷いか。

 しかし友達と言われれば、断ることは酷く残酷な気がした。友達になりたいって言って断られた経験なんてあるか?顎にかけた親指と人差し指をゆっくりと動かした。


「友達っていってもあれは確実にその先を望んでるだろ」

「だな」


 斎藤にしては至極真っ当な意見だと思った。俺の斎藤に対する評価は割と地を這っているのだ。


「じゃあ、断るかなぁ……悪いけど、考えられない」

「もったいねぇ。俺ならとりあえず有り難くいただくね」


 地を這う原因はそういうところだぞ、と思った。



「透ってモテるのに彼女作らないよな、ほんと。なんで?好きな人もいねーんだろ?芸能界ってやっぱ厳しいの?」

 

 斎藤は吟味に吟味を重ねたであろう焼きそばを頬張りながら聞いてきた。最後の問いは智宏にも投げかけているようだった。


「どうだろ……まぁ、俺らはデビューもしてない下っ端芸能人だからさ。恋にうつつを抜かしてる場合じゃないっていうか……なぁ?」


 智宏が答えて俺に話を振ってきた。口の中にはこれまた吟味に吟味を重ねたであろう焼きそばが放り込まれていた。


「だな。それに俺は興味ない」


 それは嘘であり、本当であった。姉さん以外を恋愛対象として見られない。よりによって一番興味を持ってはいけない人に、俺の唯一の興味は根こそぎ奪われていた。


「もったいねぇ。透ほどの顔があれば俺なら毎日ウハウハフィーバーモードなのに」


 なんだその頭の悪そうなモードは。「俺より智宏の方がモテる」俺は適当に選んだ焼きそばを頬張りながら智宏を見た。


「いやいや、んなわけねぇから」

「んぁー、智宏は優しいからな。俺も勘違いしそうになったことあるわ」


 がははと大袈裟に笑う斎藤に智宏は「おいおい」と顔を歪めた。


「透も優しいじゃん」

「こいつは優しくない!優しいふりが上手いだけ。顔面でカバーしてるだけだから」

「おい」


 3人で笑いながら、斎藤はなかなか鋭いな、と思った。優しいふりが上手いだけ、か。それは端的かつ的確に俺の性格を表しているように感じた。

 仁くんに「透は嫌な感情をそのまま顔に出しすぎ」と指摘されたことを思い出した。なるほど、たしかにテレビの中で観ていたアイドルはいつもニコニコしていたなぁ、と納得する。いつもニコニコか……智宏だな。そう気づいてから人に接するときのロールモデルは智宏になった。

 俺は自分が優しいだなんて勘違いしたことは一度としてない。みんなに平等に、なんて無理だ。俺は残酷に順位づけをするし、極端なことを言ってしまえば俺の周りの人の幸せしか祈っていない。それなのに一番幸せでいてほしい人の幸せすら心から願えない、そんな矮小な人間なのだ。そんな俺をなんの衒いもなく、心の底から「優しいよ」と信じて言ってのける智宏こそが真に優しい人間なのだ。


「姉さんも言ってたよ。智宏は優しいって」


 ふと思い出した記憶を手繰り寄せた。と、同時に嬉しそうに俺の親友を褒める姉さんを見て、嫉妬の感情が沸々と湧き上がってきたことも思い出す。ただ優しいと褒めただけだ。タイプだと、好きになりそうだと言われたわけではない。誰かを褒めることすら気に食わないなんて……不寛容な男だ。それでも智宏が異性として褒められ、認識されているのがとてつもなく羨ましかった。俺もそこにいたかった。弟ではなく、頬を染めながら「優しいね」とはにかんでもらえる存在になりたかった。唯一の弟だ。誰かがなりたいと願ってもなれない存在だ。それでもその全てが俺が望む姉さんとの未来を否定するのだ。


「え、香澄さんが……?わ、嬉しい」


 頬を染めて喜ぶ智宏を見て、姉さんの思わせぶりな態度を恨んだ。




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