17歳、

2

 今日はカレーか。ということは父さんと母さんは居ないな。

 門扉を通った途端にふわりと香ってくるクミンの匂いが今晩の献立と、両親の不在を知らせていた。玄関にきちんと並べて置いてあるのはやはり姉さんの靴だけであった。


「ただいま。今日父さんたちはデート?」

「……だからカレーなの」


 俺はなにも言っていないのに姉さんは不貞腐れたように下唇を突き出した。


「別に不満とかないよ。作ってくれるだけでありがとうございます」

「そうだね!しかも今日は透の忘れ物を届けた上での、これだからね」

「それはほんとに助かった……まじでありがとう」


 ふふんと得意げに笑った姉さんが「手を洗っておいでよ。ご飯にしよう」とカレー皿を調理台に置いた。用意された2人分の食器に視線を向けてから、俺は洗面台へと向かった。





「ほんとにカレーばっかでごめん」


 「いただきます」をしてカレーを一口食べると、姉さんが謝った。再婚をした両親がデートの日の晩ご飯は姉さんが作るカレー。毎度毎度カレーであることを気にしている姉さんのことを可愛く思った。


「いや、俺カレー好きだし。作ってくれるだけでほんとに嬉しいから」

「透は優しいからさぁ……ありがと。でも、来年から一人暮らしの予定だし、そうなったら料理頑張るから!」

「楽しみにしておくよ」

「あ、その目は信じていない目だなぁ」


 一人暮らしを始めてからするのは些か遅すぎるのではないのか……その言葉はぐっと飲み込んで笑みを返す。毎度カレーであることを気にしながらもレパートリーを増やそうとしない程には、料理に苦手意識があるようだった。


「料理とかの家事よりも、ただ単純に一人暮らしが心配だよ」


 これは家族としての気持ちです、と。さも当たり前の感情です、とでもいうようにさらりと言ってのけたのは紛れもなく男としての本音だった。


「姉さんって思わせぶりなところがあるから……変な男に気に入られないようにしてね」


 自分の口から出た言葉にハッとした。これは弟として正しい台詞だったろうか。姉さんはそんな心配を他所に「思わせぶりって……」とそれはそれは心外であると不貞腐れた顔をした。




「片付けは俺がするから」


 これもどちらから決めたわけではないが、いつも通りのことだ。姉さんがカレーを作って、俺が片付けをする。そしてそれが終わると2人でテレビを観る。その2人の時間が俺にとって愛おしいものだった。


 まだ少し湿った手でリビングのソファに座ると、クッションを抱えた姉さんが「ありがとう」と言った。「今日はなにを観る?」そう聞こうとして姉さんの方を見てつい笑みが漏れた。

 

「え、なに?」


 脈絡なく笑われ、姉さんが戸惑った声を出す。


「いや、それ……」


俺が指差した先には抱えたクッションを撫でる姉さんの親指があった。俺の人差し指の先を追った姉さんは、なぜ俺が笑ったのか納得がいったようだった。「もう、」と顔を僅かに赤らめクッションを抱え直した姉さんのなんと愛おしいことか。癖の一つさえも愛おしい。もしも柔く柔く何度も往復する親指に手を撫でてもらえたら……想像するだけで胸がきゅうと縮まった。

「それを言うならねぇ」と姉さんが俺の顔を覗き込み唇に触れた。


 「ほら、また唇舐めてたでしょ。乾燥するからやめた方がいいよって……」


 うん、何度も聞いた。それでもやめられない。やめた方がいいとわかっていても、染み付いた癖はやめられなかった。

 いや、そんなことよりも……先程確かに俺の唇に触れた姉さんの指先の感触が。一瞬にも満たない時間だったろう。しかしビリビリと痺れている唇が現実だったことを教えてくれる。触れたくても触れてはいけないと、頑なに線引きをしていたこちら側にいとも容易く侵入してくる姉さんに目眩がした。

 それは俺のことを下心なく弟だと思ってくれている紛れもない証拠なのだろうか。それともこれが俺の心配している思わせぶりな姉さんの一部なのだろうか。

 たった刹那、唇の痺れがなければ触れたかどうかすら曖昧な程でこうも心が乱される。姉さんの親指に撫でてもらえたらなんて……そんなことがあってたまるか。もしそうなれば俺は死んでしまうかもしれない。


「ごめん。そんなに嫌だった……?」


 そりゃそんな反応になるだろうなと思った。自分が触れた途端、石のように固まる弟を見て姉さんは至極当然の考えに辿り着いた。


「いや、びっくりしただけ……」


 風呂に入ってくるわ、と出した声が思ってもみなかった冷たさで自分でも驚いた。これじゃあ、怒っていると勘違いされてもおかしくはないだろう。いや、もしかしたら俺は怒っているのかもしれない。

 なにに?無防備な姉さんに?いやいや、俺たちは姉弟だろう。世間一般の触れ合いがどれほどまでかはわからないが、あんなもの許容範囲じゃないの?じゃあ、何に?男として意識されていないことを突きつけられたから?なんて自分勝手。

 わからない。俺は姉さんを姉さんと認識してから今日まで、ずっとただ唯一の最愛の人として想ってきた。だからどの行動が、どの感情が、弟として正しく、そして間違っているのか、それがわからないんだ。



 頭はもう充分冷えた。姉さんと顔を合わせたらさっきのことはなかったように振る舞おう。確か冷蔵庫にあったカルピスを勧めてみてもいいかもしれない。それを飲みながらくだらないバラエティでも観て、2人で笑って、それからおやすみを言おう。これで元通り。


 ソファの腕置きから見えるつま先を捉えたときにそんな予感はしていた。規則正しく上下する胸元を見て、そして幸せそうに閉じられた瞼を見て、感じたのは安心よりも落胆だった。1人悶々と悩んでいたのはどうやら俺だけで、姉さんにしてみれば俺のあの態度は正常な弟の範囲だったようだ。

 

 来年から一人暮らしをする。それを早々に決めた姉さんから聞いたとき、俺はやっと一筋の光を感じた。来年、予定通りにいけば俺たちもデビューをすることが決まっている。今とがらりと環境が変われば、誰にも赦されない、名前をつけることすら憚られるこの感情とやっと離れることができるかもしれない。

 そうなれば俺は地獄を感じずにすむ。永遠を誓う姉さんのそばで弟の顔をして笑っていられる。「姉弟仲良くしてね」と願った両親の希望を叶えてあげられる。やっと俺が住むこの世界が楽園になるんだ。


 あの時感じた光を俺は思い返していた。本当に?本当にそんな風にこの気持ちを消し去ることができるのだろうか。

 滑らかなまろい頬、乾燥してるよと咎めた艶やかな唇、愛おしげに動く指先、柔らかく下がる眦、絹のようなしなやかな髪。

 照れたときにする困った顔、怒り慣れていなくて泣いてしまうところ、泣くことを我慢したときにできる顎の皺。

 八方美人のくせに自分には厳しいところ、機嫌が悪いとアイスクリームをたくさん食べるところ、人の痛みに敏感なところ、そのくせ俺の気持ちになんて全く気付いてない鈍感なところ。

 姉さんを形作る全てが愛おしい。それを全て消し去れる?できることなら、髪の匂いを、抱きしめた体温を、囁く愛の言葉を知りたい。

 そこまで考えて、かぶりを振った。それこそ本当の地獄じゃないか。だけど、今この場で愛を囁くことは赦されるだろうか。俺は姉さんが寝ていることを再度確かめた。


 「あいしてる」


 自分の口からでたその言葉は冗談だと茶化せないほどに重く、また一歩俺を地獄へと近づけた。






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