ここではないどこか
未唯子
17歳、realization of a great ambition
1
嫉妬とは緑色の目をした怪物らしい。
なるほどなるほど、それなら今俺の目も緑色なのだろう。だけど俺はその緑色を隠さなくてはいけない。一筋の光も通さない暗闇に。
だって、姉さんが好きだなんて、そんなの。
「あ、透だ」
俺に気づいた仁くんが姉さんの肩に触れていた右手を上げた。ひらひらと俺に向かって振られる右手を視線で追った姉さんは、その先にいる俺を見て柔らかく微笑んだ。
そして俺の心はまた暗闇に沈む。後悔、そうだ、これは後悔だ。どうして滅多にしない忘れ物をしてしまったのだろう。
▼
「あ、やべ、バッシュ忘れた……」
「まじかよ、練習できないじゃん」
「え?なに、透くんバッシュ忘れたの?」
俺の大きな独り言に智宏と瑞樹が反応した。智宏は俺と同じ高校3年生で瑞樹が一つ下の2年生。あとここにはいない3歳上の仁くんと、4人でblendsというアイドルグループを1年程前に結成した。
俺たちが所属する事務所は大手俳優事務所である。その事務所が新しいことにも挑戦しよう、とした結果がアイドルグループ結成であった。
ダンス?なにそれ、美味しいの?状態の仁くんと俺、幼稚園からダンスしてました!の智宏と瑞樹の4人はある意味でバランスが良かった。
「香澄さんに頼めば?」
なんの気なしに智宏が口に出した姉さんの名前にドキリとした。「かすみさん……?あ、透くんのお姉さんか!」姉の存在だけは知っていた瑞樹が理解をして智宏に賛同する。「うぅん……」と曖昧な笑みを浮かべたが、それしか選択肢がないことはもちろんわかっていた。リュックの中からスマホを取り出してメッセージアプリを開いて祈るように姉さんに文章を送る。
姉さん、どうか家にいないで。
▼
"バッシュ忘れた"
それだけで差出人である透の言わんとしていることがわかった。通知バナーに邪魔をされたゲーム画面を閉じて、私は透の部屋の扉を開ける。黒地に緑のラインが入っているシューズケースはやはり乱雑に置かれていた。
緑は透の好きな色だ。小さな頃からやたらめったらに緑をすすめてくる父親の影響かもしれないが、気がつけば何かにつけて緑を選ぶようになっていたと聞いたことがある。
「もう、大事なものなのに…!」
ここにはいない相手に向けられた言葉が虚しく響く。丁寧に拾い上げたシューズケースを大事に抱えて、透の元へ急いだ。
▼
"あったから持って行くね"
姉さんからのメッセージを確認して「持って来てくれるって」と智宏と瑞樹に伝える。
「おぉ、よかったな!」
安心したように笑う智宏を見て、自分の中にたしかにある焦燥感を抑え込んだ。
智宏は姉さんと会ったことがあるから大丈夫。レッスン場には入って来られないから瑞樹とは会えない。大丈夫。仁くんは電車の遅延でいつ来られるかわからない…けど、大丈夫、大丈夫。
姉さんに好きな人ができるかもしれない。何度不安になって、その度何の足しにもならない大丈夫を言い聞かせて。いったいいつまで繰り返せばいいのだろうか。そして最後には俺ではない誰かと永遠を誓う姉さんをこの目に焼き付けるんだろう。
それはなんという地獄なのだろうか。どうせいつか訪れる地獄なら、いっそ今突き落としてほしい。
いつだって思い出すのはあの日出会った姉さんの下がった目尻だ。
▼▲4年前▲▼
中学2年生だぞ。
この多感な時期に突然姉ができる俺の気持ちを考えたと言うなら、再婚は俺がもう少し大人に近づくのを待ってからしてほしかった。せめて高校卒業してからだろ。
色々と思うところはありながらも父親の幸せそうな顔を見ると、もう何も言えなかった。だからと言ってこれから一緒に暮らす姉に満面の笑みで挨拶する気にもなれなかった。
「これからよろしくね」
姉さんの声はどこまでも優しかった。
こくりと頷くのみで、はにかむことも目を合わすことすらしない俺に「きちんと顔を見なさい」と父親が咎める声を出した。まるで幼い子供に言い聞かせるかのようなそれに、バツが悪くなりチラリと姉さんを見やる。その瞬間、声よりも優しい眼差しが心を揺らした。全てを赦された気がした。
どうして父さんだけしかいないのと泣いたあの日を。
心ない言葉で友達を傷つけてしまったあの日を。
かけっこで1番になれなかったあの日を。
僕がやりましたと言い出せなかったあのことを。
嘘をついて、努力が報われなくて、泣いた、悔しくて辛い、残酷な、それでも確かに一生懸命生きていた今までの全てを。
そうか、これが一目惚れか。遅い初恋だった。
そしてその瞬間、俺は犯した最大の罪を理解した。
これだけは赦されない。誰にも赦されない。
ただ確かに心の中にある。
これは俺だけが知ることのできる唯一の光だ。
▲▼
▼
電車に揺られながら私はシューズケースを大事に抱えた。親指が無意識に黒い布地を優しく撫でる。ガタンゴトンと規則的に揺れる車体が夢の世界へと導こうとしている。あぁ、だめだ……寝ちゃいそう……そう思ったと同時に車内アナウンスが目的駅への到着を告げた。弾かれたように起き上がり急いで電車から降りて、ホームに設置してある構内地図と周辺地図を見比べる。
「えっと……あ、あった。3番出口か」
休日のお昼だというのにホームに人が大勢いるのは先程から繰り返し放送されている遅延のせいかな。少し汗ばんだ身体を冷やしたくて、パーカーの胸元をパタパタと仰ぎながら階段を上り、地上を目指した。
あと少しで地上に出られる……思っていたより続いた階段に息を切らしながら最後の段に足をかけた瞬間「透のお姉さん?」と右肩を叩かれた。突然かけられた声に驚き、反射的に振り返るとそこにはとびきり顔の良い男性が窺うように立っていた。
「あ、はい、透の姉です」
しどろもどろになりながらなんとかそう返すとその男性が破顔する。通行人の邪魔にならないようにと、地上に出た後端に寄ってから自己紹介を始めたその男性に好印象を抱いた。
「突然すみません。俺、青木仁ていいます」
それを聞いて納得した。「あぁ!透がいつもお世話になっております」慌てて頭を下げた私に彼も倣った。
「いや、こちらこそお世話になっております」
同時に頭を起こした視線が交わり、そして破顔する。なんて素敵に笑う人だろう、と思った。
私の中でのイケメンの基準は言わずもがな弟の透である。初めて会った日それはそれは驚いた。中学2年生と聞いてはいたが、これは……もはや完成されているのでは?と圧倒されたのだ。
「よろしくね」と挨拶をした自分にはにかむことも目を合わすこともしない透は美しかった。横に大きい切長の目は憂いを帯び、下瞼に影を落とすまつ毛が色香を纏っていた。スッと通った鼻筋と主張の少ない唇が全体をまとめあげ、彫刻のようだと感嘆のため息を漏らしそうになる自分をぐっと律した。そして父親に咎められことにより微かに合わされた視線を感じたその瞬間、鋭い三白眼が私を射抜いた。
神様が時間をかけて丁寧に造ったであろう繊細な造形とは似つかわしくないほどの痺れるような視線だった。
私は仁さんの顔の良さに圧倒されると同時に透には感じなかった温かみを感じていた。透は彫刻のような無機質な雰囲気だけど、仁さんは華やかで……なんだろ、例えるなら王子様?みたいな周りを惹きつける魅力がある。
私が小顔だと思っている透のさらに一回りほど小さな顔に上品なパーツがきちんと正しい位置に収められている。これが黄金比というものかもしれないと思った。
そしてなんといっても今しがた心ときめいた懐っこい笑顔。誠実さの上に茶目っ気をスパイスとして振りかけた仁さんの笑顔は彼の人柄を表しているようだった。
仁さんは今から事務所に行ってダンスレッスンに参加するところだと言った。先程の遅延に巻き込まれていたようで、「遅刻なんですけど」と明るく笑う。
「透にバッシュ届けますよ」
私の右手に下げられたシューズケースを指差して目を細めた。この笑顔を見せられてどきりとしない方が失礼なんじゃないかな?とすら思う。
お願いします、と言おうとした私の声を遮って「あ、でも」と仁さんが眉間に皺を寄せて悩み出した。
「えっと……」
「あ、香澄です。黒岩香澄です」
探るような余韻に名前を告げていないことを気付かされ慌てて伝えると、仁さんが小さく「かすみさん」と繰り返した。なんだかくすぐったい。
「かすみさん、この後予定がないなら一緒に事務所まで来てもらえませんか?透の承諾なしに帰すのはどうかな、って思って」
申し訳なさげに下げられた眉まで美しいんだなぁ、なんて的外れなことを考えながら頷いた。
▼
スマホが着信を知らせる。
「あ、仁くんだ。着いたかな?」
スピーカーにするとレッスン場に仁くんの声が響いた。
「もしもし、透?」
「うん、着いた?遅延お疲れだったね」
「今着いた、ごめんな。お待たせ」
仁くんの謝罪を聞きながら瑞樹が「大丈夫。時間通りに来ても透くんのバッシュ待ちだったよ」と意地悪く笑った。くすりと仁くんが控えめに笑った後、「それなんだけど」と言葉を繋げる。
「ちょうど透のお姉さんと会ったよ。今一緒に歩いて事務所に向かってる」
どくりと大きな音が身体の中で聞こえた。俺が一番かっこいいと尊敬している仁くん。年上なのに全然威張ってなくて、俺たちに目線を合わせてくれる仁くん。本当は人一倍真面目なのにそんなところ微塵も出さずに、なんてことないよって顔してる仁くん。良いところをたくさん知っている人ほど、姉さんに会わせたくないことを誰かわかってくれるだろうか。
「透からバッシュの件で連絡もらってて良かったわ。シューズケース見てすぐにわかった」
報連相は大事だからって教えてくれたのも仁くん。
「今どこ?俺からもらいに行くよ」
1秒でも長く一緒にいてほしくないと思う醜い心は声に出ていなかっただろうか。「もうすぐ事務所だからエントランスで待ってる」仁くんが言い終わる前に焦ったいと切った電話の不通音が早く早くと背中を押した。
「行ってくる」
「きをつけてね」
そう言ったのは智宏か瑞樹か、それすらもわからずにただ急いだ。なにをこんなに焦ることがあるんだろう。俺がどれだけ焦って不安に思っても、姉さんが誰かを好きになる事実を止めることはできないのに。
▼
さすがだな、と思った。
俺たちのマネージャーが当時担当していた若手俳優のドラマ撮影で訪れた地方で声をかけたらしい。「この子は絶対にスターになる」ありきたりな言葉ではあるが心の底から感じた、と以前話してくれたことがあった。
仁くんは立っているだけで人を惹きつける華がある。どうしても目で追ってしまうのだ。端正な顔立ちとは一見不釣り合いなほどにコロコロと感情のままに変わる表情が、より一層彼を魅力的にみせていた。
遠くから見ると仁くんの華がよくわかる。
人見知りではないし、弟の仕事仲間だ。しかしそれを差し引いても、初対面の人に対して姉さんがあれほど顔を綻ばしているところは、なるほど初めて見るなぁ。
ぴたりと床に縫い付けられたように足が動かなかった。あれだけ急いで来たのに、今はもうこの場から離れてしまいたかった。それでも、自然と姉さんの左肩に置かれた仁くんの手を、口元に緩く当てられた姉さんの手を、お互いの方を向き合ったつま先を、地獄にいつ落ちてもいいように、これは予行演習だと言い聞かせて目に焼き付けた。
そして俺の目はひっそりと緑を帯びるのだ。
「あ、透だ」
仁くんが俺に気づいて右手を上げる。姉さんが俺を見て柔く微笑む。そして俺はまたその眼差しに赦された気になって、微笑み返すことができるんだ。
「お疲れ様。姉さん、ほんとごめん」
「大丈夫。透が忘れ物なんて珍しいからびっくりしたけど」
「たしかに、珍しいよな。俺はしょっちゅうするけど」
仁くんはそう言って大袈裟に笑う。「笑い事じゃないけど」瑞樹がこの場に居たなら、そんなことを言いそうだなと思った。
「俺が言うのもなんだけど、急いだ方がいいかも」
他意を感じさせないように努めて明るく言うと、仁くんは「そうだわ」と目を大きく開き焦った声を出した。
「じゃあ、姉さん」
「じゃあ、香澄さん」
俺の言い方に倣った仁くんがちゃかすように口元をあげた。姉さんは目を細めてじとりとした視線を仁くんに投げたあと、「がんばってね」と微笑んだ。一度振り返った俺に再度寄越してくれた微笑みは俺だけのものだ。
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