雨降ってなんとやら
「はあ……はあ…………ちょっと待って、お腹苦しい…………ふふっ……!」
さて、俺の攻撃は芽衣ちゃんの急所に入ったようで、芽衣ちゃんは俺にもたれかかって必死に笑いを堪えていた。
「はあはあ…………よ、よし、大丈夫、おさまってきた……」
何とか顔を上げる愛しい人。その瞳には涙が浮かんでいた。泣きたいのは俺の方である。
俺があのファッション雑誌に騙されたのは火を見るよりも明らかであり、俺としては一刻も早くこの『壁ドン』とかいうバカバカしい体勢を解除するのが何よりの優先事項だった。という訳で俺は未だ芽衣ちゃんの隣に置かれた手を下した。
────いや、下ろそうとした。
「さて…………聞かせて貰おっか?」
が、それは叶わなかった。
芽衣ちゃんは俺の腕を逃げられないように掴むと、挑発的な視線を俺に向けてきた。「面白いオモチャを見つけた」と顔に書いてあるのが俺にも分かった。
「聞かせてって…………何を?」
俺としては本件については黙秘を貫きたい気持ちで一杯なんだが。
「そりゃあもう、今の男らしーい行動についてだよ」
芽衣ちゃんの顔にはさっきまでとは違う種類の笑みが浮かんでいた。
こうして俺は今日の出来事を洗いざらい話す羽目になったのだった。
◆
「ふんふん……なるほどねえ…………。千早くんはボクをドキッとさせようとした訳だ」
「…………まあそうだね。どうやら失敗に終わったみたいだけど」
菜々実ちゃんと話して、自分がどれだけ芽衣ちゃんに気持ちを伝えていなかったのかに気が付いたこと。
それを解決する方法として、ファッション雑誌を参考にしたこと。
そこに書いてあったのが『壁ドン』だったこと。
洗いざらい喋らされた。
…………因みにまだ『壁ドン』体勢のままである。敗軍の将に拒否権はないらしい。
「────ねえ」
芽衣ちゃんが俺の顎の下を撫でる。気恥ずかしくてそっぽを向いていた俺は強制的に芽衣ちゃんの方を向かされた。
「…………」
────俺は時々思うんだ。
芽衣ちゃんは魔法使いなんじゃないかって。
その大きな瞳で見つめられると、どうにも動けなくなる。言う事を聞いてしまう。なんだか心臓がおかしくなるんだ。
「もう一回、言ってみてよ」
「や、やだよ」
決死の力で何とか拒否する。スベると分かっているギャグを芸人が言わないように、効かないと分かっている愛の言葉を囁く恋人もいないのだ。もう恥はかきたくない。
「いいから────ほら」
掴まれた手首に力が籠められる。アーモンド形の大きな瞳が俺を捉えて離さない。俺は今蛇に睨まれたカエルだった。いや、もう口の中のカエルと言ってもいいかもしれない。
結局のところ俺は芽衣ちゃんの言いなりなのだ。拒否する事なんて出来るわけがない。
俺は熱に浮かされたように恥を上塗った。
「好きだよ、芽衣……んんっ……!?」
────言い切るのが精いっぱいだった。
芽衣ちゃんは俺の首に手を回すと、思いっきり唇を押し付けてきた。
◆
俺たちは二人掛けのソファに座ると無言で身を寄せ合っていた。あまりにもくっついているせいでソファには一人分のスペースが余っていた。もしかしてこのソファは三人用なんじゃないだろうか。
何故だか理由は分からないが芽衣ちゃんの機嫌は良さそうだった。
少なくとも昨日の不安そうな様子は感じられなかった。
俺の壁ドンが効いた訳ではないのは確かだけど、一体何があったんだろうか……。
「ふわあ…………」
芽衣ちゃんは抱き枕を抱き締めるように俺の腕に両手を絡ませながら、大きなあくびをする。
俺は芽衣ちゃんの謎の上機嫌と沈黙に内心で困惑しながらも、この妙に心地いい雰囲気を嚙み締めていた。
というのも、芽衣ちゃんと付き合うようになってから一つ分かったことがある。
それは『恋人と過ごす沈黙は心地いい』ということだ。
普通は二人きりの空間で会話が無かったら気まずいものだろう。会社の上司だったり友達だったり。お昼に菜々実ちゃんと会った時だって『気まずくなったらどうしよう』と不安に駆られたりした。
それが、芽衣ちゃんと一緒にいる時だけは不思議と気まずくなかった。それどころか安心さえした。きっと、ここが俺の居場所なんだと芽衣ちゃんが認めてくれているからだろう。俺だって、芽衣ちゃんに傍にいて欲しいと思っている。そう思えるのは、この世で芽衣ちゃんだけだ。
「…………ん?」
肩にかかる重みが強くなった気がして目を向けると、芽衣ちゃんは小さく寝息を立てていた。重く感じたのは芽衣ちゃんの頭の重みだったらしい。悩みなんてありません、と言いたげな晴れやかな寝顔を無防備に晒している。きっとこの顔が見られるのは世界で俺だけだ。
気付けば俺はそっと芽衣ちゃんの頬を撫でていた。きめ細やかな肌が手にぴたっと吸い付いてくる。本当に俺と同じ人間なんだろうか。自分の肌とは、湖と砂漠くらい違う気がした。
「…………ふわぁ……」
眠気は伝染する、というがどうやらそれは本当らしい。
安らかな芽衣ちゃんの寝顔を見ていたらこっちまで眠くなってしまった。芽衣ちゃんと仲直りする、という一大事が解決したこともあるだろう。すっかり気が抜けてしまっていた。
「…………どっちにしろ、この状態じゃあな……」
芽衣ちゃんは俺の腕にしがみついたまま寝てしまっていた。おまけに腕に頬をくっつけている。この状態ではトイレすら満足に行くことが出来ない。かといって芽衣ちゃんを起こすのも気が引けるのだった。
「俺も寝るか……」
明日は月曜だが…………まあ問題ないだろう。芽衣ちゃんの家にも私服やスーツの替えは置かせて貰っているし、泊まるのもこれが初めてではない。何なら芽衣ちゃん家からの方が出勤が楽だった。
俺は芽衣ちゃんを起こさないように気を付けながら、そっと芽衣ちゃんにもたれかかった。逆サイドのソファの縁側に体を預けても良かったのだけれど、そうしたい気分だった。
今の俺達、『人』という文字みたいだな……と、落ちかけた頭でそんな事を思いながら、俺は眠気に全身を預けた。
落ち行く意識の中で「ありがとね、千早くん」────そんな幻聴が聞こえた気がした。
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