ご利用は計画的に
芽衣ちゃんの家は俗にいう一等地にあり、その中でも一際高く聳え立つそのタワーマンションは駅の出口からでも視認することが出来た。
芽衣ちゃんの部屋からは駅を見下ろすことが出来る。つまり、ここからでも芽衣ちゃんの部屋を見ることが出来るはずだ。
俺はなんとなくこの辺だろうと当たりをつけてタワーマンションの一角を見上げると、そこに芽衣ちゃんの存在を感じた。もしかしたら芽衣ちゃんも窓から俺を待ってくれているだろうか。約束の時間まではあと十分。
慣れた足取りで駅前から離脱し、そのまま歩いていくと、すぐに緑が増え始める。この辺りはもうタワーマンションの敷地内だ。こんな高級住宅地にウォーキングコースとして敷地内で完結しそうな広い庭まであるとは、一体いくらお金が掛かっているのやら。家賃を聞いたときは目玉が飛び出しかけたのを覚えている。
エントランスに続く大きな自動ドアをそのまま横切り、セキュリティルームに向かう。このマンションはエントランスにすら勝手には入れないようになっている。防犯設備を重視して決めた、と芽衣ちゃんは言っていた。
セキュリティルームには体格のいい警備員が詰めていた。
警備員さんは俺の姿を認めると、何も言わずにカードを差し出した。この警備員さんとももうすっかり顔なじみだ。俺は「ありがとうございます」と伝えカードを受け取ると、エントランスに向けて踵を返した。
高級ホテルのロビーのようなエントランスを抜け、エレベータールームに入る。
先ほど貸与されたカードをリーダーに翳すと、エレベーターは音もなく上昇していく。利用者は決められた階にしか行くことは出来ない。彼氏としては、彼女が防犯対策がしっかりしている所に住んでいるのは安心できる。
ほどなくしてエレベーターは目的の階に到着し、俺が踏み出した足を毛足の長い絨毯が優しく受け止める。このマンションは本当に至る所にお金がかかっている。俺からすれば『どうしてそこまで』と思ってしまうくらいに。
「…………よし」
頭の中を一度整理する。
やることは単純だ。
インターホンを押す。芽衣ちゃんがドアを開ける。玄関に入る。靴を脱ぐ。リビングに戻ろうとする芽衣ちゃんの手を掴む。壁ドンする。決めセリフを囁く。
完。
俺の作戦に死角は見当たらない。強いて言えば、俺がこっ恥ずかしさに笑ってしまわないか、という事くらいだ。まあこれは気合で対処可能と言える。
スマホを確認すると、丁度集合時間だった。
俺は腹筋に力を籠め、インターホンを押した。
◆
インターホンを押すと、玄関で待っていたのかすぐに扉が開いた。
「いらっしゃい」と言う芽衣ちゃんの顔は昨日と打って変わって晴れやかに見えた。が、そんな訳はない。俺たちの間には深刻な問題が横たわっていて、俺は今日それを解消しに来たんだから。きっと無理をして明るく振舞っているんだと思う。そんな所も愛らしかった。
芽衣ちゃんは何も言わずに俺のスリッパを用意してくれる。ウサギのもふもふスリッパはすっかり俺の足形がついてしまっていて、なんだかそんな事をうれしく感じてしまう自分がいた。芽衣ちゃんの生活に、俺は確かに存在している。
「…………」
チャンスは一瞬だ。
下手にリビングに入って談笑モードになってしまうと、雰囲気の切り替えが出来ない。何度も脳内シミュレートを行った結果が玄関で事に及ぶことを決定づけさせた。
芽衣ちゃんの腕から目を離さないようにしながら俺は器用に靴を脱いでスリッパに履き替えた。芽衣ちゃんはそれを見てリビングに踵を返す。
今しかない。
今しかない今しかない今しかない掴め掴め掴め!
「………………っ」
自分のものじゃないみたいな体をなんとか動かして、俺は芽衣ちゃんの腕を掴んだ。手の中の確かな感触にぶわっと汗が噴き出す。賽は投げられた。もう後には引けない。あとは前に進むだけ。
「んっ……なに千────わわっ」
芽衣ちゃんは何が起きているのか分からない、というように目を大きく見開いて、俺にされるがままになっていた。俺は力強く芽衣ちゃんを引き寄せると、壁際に追いつめた。
芽衣ちゃんの小さな顔の横に手をつくと、芽衣ちゃんが俺の中にすっぽりとおさまり、想像の百倍の緊張を俺にもたらした。芽衣ちゃんは相変わらず呆気にとられた様子で俺の事を見ている。頬が少し赤い気がした。
ついにここまで来た。あとは
「……………………」
一秒か、十秒か、あるいは永遠か────俺たちは無言で見つめあった。リビングの方から聞こえるテレビの音と、二人の息遣いだけが俺たちの世界だった。一生このままなんじゃないか────そんな事が頭をよぎった。
別に何の宗教も信じていないけれど、今だけは名も無き神に祈った。
この瞬間、この瞬間だけでいい。俺を芽衣ちゃんにとってかっこいいと思える人間にしてくれ。
「好きだ…………芽衣」
俺は精一杯のキメ顔でそういった。キメ顔と言ってもよく分からないのでただの真顔なんだが、とにかくこれが俺のキメ顔だった。
「…………」
静寂。
芽衣ちゃんはびっくりした猫みたいな表情で俺の顔を見つめている。何も動きはない。
もしかして俺の言葉は石化の呪文だったんじゃないか────不安になり始めたその時、芽衣ちゃんの顔がゆっくりと綻んだ。それはダムの決壊に似ていた。
「…………ふふっ…………あははっ…………あはははははっ! ちょ、ちょっと待ってっ、千早くんどうしたのっ…………ふふふっ……あははっ……!」
芽衣ちゃんは俺の胸に頭を押し付けるようにして、腹を抱えて笑い出した。
「……………………へ?」
俺は空しく壁に手をつきながら、もう二度とファッション雑誌は信じないと心に誓った。
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