神楽芽衣と木崎菜々実

「あのぉ…………」


「はい?」


 呼ぶ声に顔を上げると、女性が遠慮がちに私の顔を覗いていた。

 歳は…………私と同じくらいかな?


 何故か帽子とサングラスを手に持っていることが気になったけれど、それを気にしなければとても綺麗な人だ。


「えーっと、何か御用でしょうか?」


 脳内メモリーを探ってみるけれど目の前にいる人は誰とも合致しなかった。そもそも私は知り合いが少ないのだ。


「ああいや用ってほどでもないんだけれど…………言いにくい事を言ってくれてありがとうございますというか、何というか…………」


 女性は恥ずかしそうに後ろ髪を弄りだす。


 ────ああ。

 その反応で何となく分かってしまった。


「もしかして…………千早さんの彼女さんですか?」


「えっ!?」


 女性は驚いたように私の顔を見ると、恥ずかしさと困惑が半々になったような奇妙な顔を浮かべた。これまでの人生であまり見たことのない何とも形容に困る顔だ。


「ああ…………えっと…………そうです。ボク、千早くんの彼女の神楽芽衣っていいます」


「ご丁寧にどうも。私は────」


「────菜々実さん、ですよね。知ってます」


「あ、はい。そうです……?」


 目の前の、えーっと……神楽さんはどうして私の事を知っているのだろう。

 千早さんが言っていたのかな。ここにいるってことは、多分そういうことなんだろう。


 そりゃそうか。彼女としては彼氏が女性と会うって知ったら気になるよね。

 千早さんに彼女がいることを知らなかったから、何だか悪いことをしてしまったな……。


「えっと、ごめんなさい。千早さんに彼女さんがいることを知らなくて。知ってたらお誘いしなかったのですが……」


「ああいや、それはいいんです。それを怒りに来た訳じゃ全然なくて。…………ボクがけしかけた所もあるし」


「…………?」


 最後の方は小さくて聞き取れなかったけれど、怒っている訳ではないと分かってほっと胸を撫でおろす。


 でも、それなら一体何の用なんだろう……?


「とりあえず…………座ります?」


「あー…………じゃあ。ちょっとだけ」


 さっきまで千早さんが座っていた席に今度は神楽さんが遠慮がちに座った。ふわっと髪が揺れて、何だかいい匂いがした。





「…………」


 まずい…………。

 勢いで話しかけてしまったけど、話すことがない…………。


 無性に話してみたくなった。

 そんな衝動に身を任せてみたのはいいものの、色々な事情からボクは口を開けずにいた。


 色々な事情というのはつまり…………菜々実ちゃんから千早くんを奪ってしまった後ろめたさだったり、甘えん坊だということを千早くんに暴露されているという気恥ずかしさだったり。


 まあ主に後者だ。

 前者については、さっきの千早くんの言葉を聞けてほとんど吹っ切れた。


 向こうの世界は向こうの世界。こっちはこっち。


 そういうメンタルになれた。


 だから今のボクはわりかしハッピーめな心持ちでいるのだけれど…………それが良くなかった。


 その浮ついた気持ちが今のこの沈黙を作ってしまったのだ。


 あー…………うー…………。


 どうしよう、何を話そう。


 だんだん気まずくなってきた。ほら、菜々実ちゃんも訝しげにボクをみてる。もうおしまいだ。


「愛されてますね」


「え?」


「神楽さんのことです。千早さんにとても愛されてるんだなって、私は思いました」


「そっ、そうかな? えへへへ……」


 あまりに予想外の話題に自分が取り繕えなくて、つい気持ち悪い声が漏れてしまう。


 …………でも、そっか。

 菜々実ちゃんから見ても、千早くんはボクの事を想ってくれているように見えるんだ。

 その事がとてもボクを安心させた。


「ええ。千早さんには思ったことをずけずけと言ってしまって、もしかしたらご迷惑になっているかもしれないですが……」


「ううん! それは絶対にないから! 寧ろありがとうだよ! というかそれを言いに来たんだった!」


 恐縮する菜々実ちゃんが見ていられなくて、反射的に思っていたことをまくし立てる。


「千早くんから聞いたと思うけど…………お恥ずかしながら、この所ちょっと不安になってしまって。こっちこそ面倒に巻き込んでしまってごめんなさい」


「ああいや、私は全然構わないですけど…………うーん……?」


 菜々実ちゃんの疑問形な終わり方が気になって下げた頭を上げてみれば、菜々実ちゃんは顎に手を当ててあの有名な彫刻みたいなポーズをしていた。なんだっけ、考える人?


「いや、でもな…………現に私がそうだし…………真美さんだって…………がある訳で……」


 菜々実ちゃんは考え事に一杯一杯な様子。

 一体どうしちゃったんだろう?


 どうすることも出来ずにアイスコーヒーをちゅるちゅる啜っていると、菜々実ちゃんは遠慮がちに口を開いた。


「あのー、すいません。ちょっと試しに『やっほー!』って言ってみて貰ってもいいですか?」


 菜々実ちゃんのお願いははっきり言って意味不明だった。

 本当にどうしちゃったんだろう。


 でもまあ、恩もあるしそれくらいならやぶさかではなかった。


「やっほー」


「あ、もうちょっと元気な感じでお願いします」


 元気な感じ……?

 店内だし、声は抑え目で…………こんな感じかな……?


「やっほー!」


「もう少し幼い感じで」


「やっほー!」


「不可思議ありすさんですか?」


「え」


 バレた!?


 え、待って、なんでなんでなんで!?


「えっ、ちょっ…………え?」


「声が、何というかそのままだったので…………もしかしたらそうかな、と」


 高速回転する頭の中、かろうじて菜々実ちゃんの言っている意味が汲み取れた。


「…………あー…………こえ……こえか…………え、そんなにそのまま……?」


 確かに配信してる時に特別声を作ってる訳じゃないけど、それでも少しはキャラ付けに合わせていたつもりだった。


「勿論声だけで本人! とまではいかないですけど、千早さんの仕事とか考えると『もしかして』って程度には」


「な、なるほど…………」


 軽く深呼吸して落ち着きを取り戻す。


 …………バレたのが菜々実ちゃんで良かった。

 向こうの世界でオフコラボした経験がなければもう少し焦っていたかもしれない。


 バーチャル配信者としての意識が染みついているのか、ボクたちは気付けば小声になっていた。


「実は…………私もなので。あの…………初めまして、氷月ひゅうがこおりです」


 菜々実ちゃんはぺこっと頭を下げた。


 うーん、知ってたって言ってもいいけど…………それだと千早くんが口軽いと思われちゃうか。

 知らなかったていでいた方がいいよね。


「あ、そうなんですね……! 姫と仕事するっていうのは会議で聞いてて知ってたんですけど、菜々実ちゃんがそうだったとは……!」


 我ながら不自然な演技に思わず苦笑いしそうになる。

 でも何とか誤魔化せたみたいだった。


「まさか千早さんの彼女さんがありすさんだったなんてびっくりです。千早さんとはお仕事で?」


「えーっと、うん。前にやった仕事で会って。ボクが、その…………ひ、一目惚れ、したというか……」


 口に出すのも恥ずかしい。

 でも胸の中は暖かい気持ちでいっぱいだった。


「一目惚れ! いいですねえ…………じゃああり…………神楽さんから猛アタックを?」


 ふと目が合うと、菜々実ちゃんの瞳はキラキラしていた。

 ボクは悟った。『これは色々聞かれる奴だ』と。

 女子という生き物は他人の恋愛話が何より好きなのだ。


「まあ…………うん。千早くん、鈍感だから…………あんまり気付いてくれなくて……」


「ああ……いいですねえ…………で、告白はどっちから……?」


 菜々実ちゃんはもう口から涎が出そうになっていた。

 さっきまでは大丈夫だったのに、ボクが知り合い(といってもいいのかは分からないが)と分かると我慢出来なくなったみたいだ。


 それにしても、恋愛話がこんなに恥ずかしいと思わなかった。

 ボクも学生時代に何度かそういう場面に居合わせた事があったけど、初めて気持ちが分かった。


「それは……一応ボクから。…………MMVCの日の夜に」


「ああーあの日に。…………あれ、もしかして私が最後に倒したのって…………」


 菜々実ちゃんが『しまった』という顔になる。


 その顔を見てボクの心には悪い考えが浮かんだ。


「うん、ボク。本当は優勝して告白しようと思ってたのに…………」


「ああああごめんなさいごめんなさい!!!」


 ボクが露骨に落ち込んだマネをすると、菜々実ちゃんはテーブルに額をこすりつけんばかりの勢いで頭を下げた。


「あははっ、ジョーダンジョーダン! でも、次は負けないから!」


 ボクが思わず噴き出すと、菜々実ちゃんは遊ばれたのを察したのか悔しそうに頬を膨らませた。


「む、エムエムなら負けませんよ。返り討ちです」


 二人で笑い合う。


 胸につっかえていた最後の棘が、抜けた気がした。

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