壁に耳あり
「ごめんなさいっ、お待たせしてしまいました!」
菜々実ちゃんが息を切らせて駆け寄ってくる。夏らしい薄手のワンピースがひらひらと揺れて、見てるだけで涼しくなった。
「大丈夫だよ、俺も今来たところだから」
自分の言葉があまりにそれらしくて笑ってしまいそうになるけれど、これは当然デートではない。
発端は菜々実ちゃんからの一本のルインだった。
『この前のお礼をさせてくれませんか?』
足を怪我した菜々実ちゃんを家まで運んだことを菜々実ちゃんは気にしているようで、そんなルインが飛んできた。芽衣ちゃんと話し合った夜の事だ。
運んだと言っても数分の距離だし大した手間でもなかった。俺は全く気にしていなかったんだが…………断ろうと思ったその時、芽衣ちゃんの言葉が脳裏に浮かんだ。
『菜々実ちゃんの事を知れ』
俺の正直な所を言ってしまえば芽衣ちゃん以外の女性を好きになることなんてありえないと断言出来るし、菜々実ちゃんの事を知ることに意味なんて無いと思うけれど、菜々実ちゃんを知らないままで吐く俺の言葉に芽衣ちゃんは納得してはくれないだろう。そういう意味で言えば菜々実ちゃんのルインは渡りに船だった。
とはいえ芽衣ちゃんという心に決めた女性がいる中で彼女以外の女の子と遊んでも楽しくないし、何より俺は女性が苦手だった。芽衣ちゃんが特別なだけなのだ。
そこで俺は考えた。
────俺は今、神楽芽衣という存在に俺がどれだけあなたが好きなのかを分からせてやりたいと思っている。
もう二度と不安で心をいっぱいにする事なんてないように、ありったけの想いを伝えようと思っている。
だが、残念なことに俺は女性というものがよく分かっていなかった。芽衣ちゃんとの今回の騒動も俺のそういった性質が原因ということもあるかもしれない。普段の俺の言動で芽衣ちゃんを安心させることが出来ていれば、芽衣ちゃんも思い悩むことはなかったはずだ。
そこに届いたのが菜々実ちゃんからのルイン。俺は悩んだ末こう返信した。
『相談に乗って欲しいことがあるんだけど、いいかな?』
これが俺たちが地元駅前のカフェで待ち合わせている理由である。
勿論芽衣ちゃんには報告済だ。
俺の連絡に芽衣ちゃんは『わかった』とだけ返してきた。きっと不安なんだと思う。俺は『大丈夫だよ』と返したけれど、その言葉もどれだけ意味があるのか今の俺には分からない。
◆
「彼女さんとすれ違ってる…………ですか」
俺の相談に菜々実ちゃんはやや面食らっていたけれど、すぐ真面目な顔に復帰した。
分かるよ。俺から恋愛関係の話題がでるなんて思わないよな。
それもほぼ初対面だし。そのことについては申し訳ないと思っているんだ。
「そうなんだ。俺は芽衣ちゃ────彼女の事が大好きなんだけどさ。どうにもその気持ちが伝わってないというか」
「うーん…………」
菜々実ちゃんは視線を右上にやって考え込んでいる。ストローを口にしているけれど、カフェオレは同じ場所をキープしたままだった。
幾何の時間が流れただろうか。
私も経験ないので想像にはなっちゃうんですけど、と前置きをして菜々実ちゃんは口を開いた。
「彼女さんにそういう気持ちをちゃんと伝えてますか? 好きだよーとか」
「────え」
瞬間、背筋に鋭い氷柱を差し込まれたような錯覚に陥り俺は言葉を継げなかった。
菜々実ちゃんの問いへの答えは考えるまでもなく俺の記憶が知っていた。
…………いや、言うには言っている。
だけど俺たちのやり取りはいつだって芽衣ちゃん発信で、俺はそれに応えているだけだった。俺から連絡したり気持ちを伝えたりした事は…………ほとんど無い。
「その反応は…………ビンゴですね?」
菜々実ちゃんがニヤッと笑う。菜々実ちゃんは名探偵モードになっているのか、それとも人の恋愛話ほど面白いものはないのか、前屈みでこちらを覗き込んでいた。
「あ〜…………えーと…………いや、うん。自分から言ったことは、ほとんどないかもしれない…………」
「なるほどなるほど。因みに彼女さんはどういう人なんですか?」
「どういう人、かあ。えーっと…………可愛くて、クールそうなのに実は甘えん坊で、ほっとけなくて、笑顔が本当に可愛くて…………俺に元気と癒しをくれる、そんな人かなあ。…………あ、ごめんね惚気けちゃって」
「いえいえ、幸せそうで何よりですよ」
菜々美ちゃんは本当にいい子で、俺の惚気にも嫌な顔ひとつする事無く笑顔を作っている。
その代わり衝立の向こうで女性の咽るような声が聞こえ、俺は心の中でその女性に謝った。
…………いきなり惚気て本当にごめんなさい。
「今の話を聞くに、その彼女さんはもっと千早さんにぐいぐい来てほしいんじゃないでしょうか? 千早さんは言葉で、そして行動で、全身で愛情を表現するべきだと思います。…………好きな人に愛されて嫌な女の子なんて、いないはずですから」
「…………なるほど、そういうものなんだ」
俺としては十分に愛情表現が出来ていると思っていたんだけれど、俺の女性への苦手意識が災いしたのかはたまた持って生まれた性分のせいか、どうやら俺の愛情表現は淡泊らしい。確かにドラマみたいな歯の浮くようなセリフを言ったことはないし、男らしく迫ったこともない。俺たちはいつだって芽衣ちゃん主体だった。
「そういうものなんです。…………ほら、そうと決まれば早速行ってきてください!」
「え、今から!?」
「彼女さんは今も寂しがってるんですよ! それにあんまり長く一緒にいるのも彼女さんに悪いですからね。ほら、行った行った!」
菜々実ちゃんに急かされて俺は喫茶店を後にした。
今からったって…………芽衣ちゃん配信中だったりするんじゃないか。
そう思ってミーチューブを確認してみたけれど、不可思議ありすのページにオンエアアイコンは表示されていなかった。
ルインしてみるか…………?
いやでもどうするんだ。愛情を伝えるったって…………な、なんだ。愛してるとか言えばいいのか……?
それとも思いっきり抱きしめるとか……?
うーーーーん、だめだ分からん。そもそもそんなにすぐプランが出てくるならこういう事にはなっていないんだ。
…………まあ、いいか。たまには当たって砕けてみるのも悪くないだろう。
『今から家に行っていい?』
そうルインを入れると、間髪入れずに返信が返ってくる。芽衣ちゃんは即レスがデフォルトなんだ。
俺は心の中で死地に赴く兵士よろしく決心を固めた。
『今はダメ』
…………って駄目なんかい!
芽衣ちゃん曰く夜ならオーケーとのこと。
それはそわそわしながら、いつもより速足で自宅に足を向けた。
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