芽衣っちゃう

「ああもう、馬鹿馬鹿バカバカボクのばか…………!」


 枕を顔に押し付けてじたばたと暴れる。


 ミシッ、ミシッ、と音をたてて軋むベッドに鞭を打つようにボクはもんどりうった。


「…………はぁ」


 暗い部屋、ベッドの上で活きのいい魚のように跳ねる姿はまさに奇行そのもの。ガンガンにクーラーが効いているのに身体はじっとりと汗をかいていた。


「…………ちはやくぅん……」


 つい甘えた声を出してしまう。


 でも、それくらい許して欲しい。


 今日のボクは頑張った。


 頑張ったんだ。


 …………本当は菜々実ちゃんの事なんて知らないフリをしたかった。千早くんのスマホから菜々実ちゃんの連絡先を消して全て終わりにしたかった。安心したかった。


 でも、ギリギリの所で踏みとどまった。


 だってそこにはボクの幸せしかないから。千早くんの本当の幸せはないんだ。


 何よりそんな状態じゃ────ボクが笑えない。愛する人を騙したまま笑い合うなんてボクには出来なかった。


 だから、今日の決断に後悔はない。不安はあるけれど、後悔だけは有り得ない。


 とはいえ。


「…………お願いだから、ボクを置いて行かないでよ…………」


 胸の空白が耐えられない。今まではそれだけで暖かくなれたのに、いくら彼の名前を呼んでも冷たい風が胸の隙間を通り抜けるだけだった。


 不安。


 不安。


 不安で仕方なかった。


 嫌な想像を浮かんだ傍からかき消して。でもいくら消しても消えてはくれなくて。


 肩を並べて仲睦まじく歩くあの日の二人が、いつまでもボクを離してくれない。


「ああもう、死んでしまいたい…………」


 今日のボクは、頑張ったよね?


 だから────お願い。


 千早くんだけは、ボクから奪わないで。


 真夏なのに震える手足を押さえつけて、ボクは毛布にくるまった。





 『俺には芽衣ちゃんしかいないよ』と囁いて、その華奢な身体を抱き締めることは簡単だったし、出来るなら俺もそうしたかったけれど、そんな行為では芽衣ちゃんの心の内に渦巻く暗い気持ちを払拭することなんて出来ないことくらいは俺にも分かった。


 …………芽衣ちゃんがあっちの世界で経験したことは、かなりのショックを伴って未だに芽衣ちゃんを苛んでいるんだろう。


 その原因が自分であることに、俺は申し訳なさと怒り、そして正直のところ…………ほんの少しの喜悦を感じていた。


 芽衣ちゃんが辛い思いをした事自体は、別世界の事とは言え俺も悲しいけれど、逆に言えばそれだけ俺の事を好きでいてくれたという事実は嬉しく思ってしまうのだった。


「とはいえ、だよな…………」


 芽衣ちゃんが変わらず好きでいてくれている事から、向こうの俺とこっちの俺は殆ど同一人物なのだろう。


 であれば向こうの俺も不誠実な真似はしていないとは思う。ちゃんとした恋愛の上で菜々実ちゃんと恋愛関係になったのだと信じたいが…………それはそれとして、俺の大切な人を悲しませてしまった責任は、俺が取るべきだろう。


 いや、『取りたい』と思った。


「…………」


 俺はベッドに転がって、天井から降り注ぐ眩しい明かりにスマホを翳した。自室の明かりは芽衣ちゃんの住む高級タワーマンションの照明と比べると涙が出そうになるほど小さくて、スマホひとつですっぽりと隠れてしまう。


「…………」


 芽衣ちゃんは『菜々実ちゃんの事を知れ』と言っていた。その上で菜々実ちゃんの方がいいと思ったら自分は身を引く、と。


 俺の運命の相手は菜々実ちゃんなんだ、と。それでもいいと言わせてしまった。


「…………」


 ふつふつと何かが湧き上がってくる。胸の奥で何かに火が着く。


 それはどんどん燃え広がって、俺の心臓を動かす原動力になる。


 その感情に名前をつけるなら、それはまさしく『怒り』だった。


「…………」


 俺の運命の相手が菜々実ちゃんだって?


 そんな訳ないだろ。


 だって俺の運命の相手は────


「────芽衣ちゃんしかいないんだよ」


 口に出せば勇気が湧く。


 俺がどれだけ芽衣ちゃんの事を想っているか。


 俺がどれだけ芽衣ちゃんから元気を貰っているか。


 芽衣ちゃんと出会って…………俺がどれだけ幸せになったか。


 ────待ってろよ、神楽芽衣。


 それを、思いきり分からせてやる。

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