決意

 芽衣ちゃんと過ごした日々。


 決して長くはないその日々だけど、その全てが俺にとってかけがえのない毎日で。


 それまでの空虚な毎日とまるで正反対なその眩しい思い出を、芽衣ちゃんは紡いでいく。


 そして、それももうすぐ終わりを告げようとしていた。


「ボクのやってきたことは、決して無意味じゃなかったんだ。そう思ったら…………いつの間にか自分の気持ちを口にしてた」


 友達から、恋人になった夜。


 あの日のことは今でも鮮明に思い出せた。


 二人を包む生ぬるい夏の夜風。夜空に散りばめられた満天の星々。


 隣に感じる芽衣ちゃんの息遣い。


 そして────俺より少しだけ高い恋人の体温。


 俺の人生で間違いなく一番幸せだったと言える。それがあの夜だった。


「────嬉しかった。千早くんの彼女になれたんだ。夢じゃないよねって何度も確かめた。頬をつねっても覚めることはなくて、寝る前ベッドの中でやっと実感が湧いたっけ」


 芽衣ちゃんの独白に少し笑いそうになる。それはこの緊張した空気に心が抵抗したかったのかもしれないが、何より芽衣ちゃんが俺と全く同じ事をしていたことが分かったからだ。


 芽衣ちゃんの彼氏になれたことが嬉しくて、何より信じられなくて、ベッドの中で何度も暴れた。眠れたのはベッドに入ってから一時間以上経過した頃だった。


「それからは一瞬だった。夢見た千早くんとの毎日は想像していたよりもずっと甘くて幸せで────ボクは世界一幸せ者だった」


 芽衣ちゃんの表情が、ふっと僅かに緩んだ。


 釣られて俺もつい頬を緩めてしまう。芽衣ちゃんの笑顔は太陽よりも眩しいんだ。


 芽衣ちゃんの言葉を嘘にしてしまうが、世界一幸せなのは芽衣ちゃんじゃない。


 俺だと自信を持って言える。そんな気持ちになった。


「…………」


 芽衣ちゃんと振り返る俺たちの思い出────それはついに今この瞬間までやってきた。


 色々あった…………色々あったけど、物凄い幸運の結果こうなった気もするし逆にどうやっても俺たちはこうなっていた気もする。


 芽衣ちゃんといる毎日は本当に幸せで、それでいて自然体で、なんと言うかこう…………すっぽりとおさまりがいいと言うか。


 とにかくしっくりくるんだ。


 芽衣ちゃんの隣に居ることが。


 『運命の人』という表現があるけれど、俺にとってそれは芽衣ちゃんだったんだと確信している。


「────でもね」


 芽衣ちゃんが零した一小節に俺は身震いした。だってその言葉は否定的な意味合いしか持たないんだ。


「千早くんが菜々実ちゃんと会ったって言った時…………ボクの心に湧き出てきたのは悲しみじゃなかった。勿論、怒りでもなかった。当然だよね、ボク自身卑怯なことをしてきたんだもん。千早くんに怒れる筋合いなんて一つもないんだ」


 芽衣ちゃんがそんな風に思っていたなんて、俺は想像すら出来なかった。巨大な雷を落とされると思っていた。迂闊な事をしたと本気で反省していたんだ。


「ボクの心に浮かんだのはたった一つ────『やっぱり』だった。千早くんの運命の人は菜々実ちゃんだったんだなって思い知らされた」


「それは────」


 違う、と反論したかった。けれど芽衣ちゃんは反論を許さなかった。


「ううん…………本当は分かってたんだ、それは。あっちの世界で、デート中の千早くんと菜々実ちゃんに会ったことがあるんだ。二人共本当に幸せそうでさ。悔しいけど、お似合いだなって思っちゃったもん」


 芽衣ちゃんの知るもう一人の俺は、こおりちゃんの中の人である菜々実ちゃんと仲良くやっていたらしい。


 そう言われても俺にはどうすることも出来ない。


 芽衣ちゃんを悲しませたその俺をぶん殴ってやりたい気持ちにもなるが、逆に考えればそのお陰で俺は芽衣ちゃんと仲良くなれたのであって、この問題を正しく解き明かすには長い時間が必要な気がした。


「こっちの世界でもやっぱり千早くんと菜々実ちゃんは出会ってしまった。その時思ったんだ────もしかしてボクは千早くんの幸せを奪ってしまったんじゃないか、って」


 幸せ…………?


 芽衣ちゃんの言っていることが分からない。

 今ここにあるのが幸せじゃなくて、一体なんだと言うのだ。


「…………千早くんがこおりちゃんが好きだって気持ちがどれほど大きいのか、ボクは理解してるつもりなんだ。その中の人の菜々実ちゃんと恋人になることが千早くんにとって一番の幸せだっていうのも。一番はボクじゃない…………それが分かった上で、それを考えさせられた上で、さっき気が付いた事があるんだ」


「気が付いた事…………?」


「それは────それでもボクは千早くんを諦めたくないってことだった。千早くんと一緒にいたい。失いたくない。一番じゃなくてもいい────もしかしたら千早くんの幸せを奪っているのかもしれない。それでも、ボクは千早君と一緒に居たい。わがままだけど、それがボクの気持ち」


「なら────」


「────でも。千早くんが菜々実ちゃんと出会ってしまった以上、隠したままには出来ないんだ。これからの人生ボクと千早くんだって喧嘩する時がきっと来る。すれ違う時が来る。その時に『もし菜々実ちゃんを選んでいれば』って後悔を引き摺って欲しくない。ボクだってそう思われたまま付き合いたくはない」


 芽衣ちゃんの話すその未来は、俺には全く想像が出来ないものだった。けれど、向こうの世界の俺を見ている芽衣ちゃんに取っては容易に想像が出来るものなのだろう。


「だから────千早くんには菜々実ちゃんの事を知ってほしいんだ。その上で菜々実ちゃんの事を好きになってしまったら────」


 芽衣ちゃんはその言葉を口にするのに時間をかけた。


「────その時は、ボクは身を引くよ」


 隠しきれない不安を瞳に湛えて、芽衣ちゃんはそんな事を言うのだった。

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