発露
「────あ、あの……………芽衣…………さん……?」
芽衣ちゃんのじっとりとした視線がじりじりと肌を焼く。幾度となく訪れた芽衣ちゃん家のリビングは間違いなく今現在観測上最高湿度を記録していた。…………空気が重い。
「あ、あの…………」
無言の芽衣ちゃんに恐れを為して、俺はいつの間にかソファから降り床に正座していた。
目線を合わせることも出来ず、床に敷かれた高級そうなラグの長い毛先をただただ眺めている。
「────────千早くん」
どれほどの時間が経っただろうか。
『こおりちゃんと連絡先を交換してしまいました』と白状してからずっと沈黙を守ってきた芽衣ちゃんが、遂に口を開いた。
「は、はい…………」
言い訳はない。
あの後家に帰ってよく考えてみれば、少し迂闊だったなと自分でも思った。推しを前にして舞い上がっていたのもあるし、何より面と向かって断る勇気が無かったのだ。自分の心の弱さが原因で芽衣ちゃんを裏切ってしまった。
もし許して貰えるのなら俺は何でもするつもりだ。
果たしてどんな怒りの言葉が飛んでくるか────そう身構えていた俺の耳朶を打ったのは、想定外の言葉だった。
「─────ごめんね」
「…………え?」
重く沈んだそのトーンに思わず顔を上げると、先程までアマゾンもかくやという湿度で俺を睨んでいた芽衣ちゃんが悲しみに顔を歪めていた。見れば目には光るものがあった。
────心臓が締め付けられた。
怒られるのは覚悟していた。けれど、悲しまれる覚悟は出来ていなかった。
「め、芽衣ちゃん!? 本当にゴメン! もう二度としないから!」
女性を泣かせた経験などなく、当然どうすれば許してもらえるのかも分からない。母親に叱られた子供みたいに謝ることしか俺には出来なかった。
「…………違うんだ。千早くんは悪くないんだよ。…………あははっ、やっぱりこうなっちゃうのかなあ…………?」
芽衣ちゃんは早口で何かを捲し立てた。何を言ってるのか分からなかった。芽衣ちゃんの視線の焦点は俺ではなく、どこか遠い所で結ばれているような気がした。
「芽衣ちゃん…………何を…………?」
芽衣ちゃんは小声で何かを呟いていて俺の言葉なんて耳に入ってないみたいだった。
『菜々実ちゃん』『もえもえ』そんな言葉が辛うじて聞こえてきた。
俺はどうすることも出来ず、そんな芽衣ちゃんをただ見つめることしか出来なかった。
暫くすると、芽衣ちゃんは涙を拭って、雰囲気にそぐわぬ明るい声でよしっと大きな声をあげた。
「やっぱり卑怯な事をしてもダメみたいだ。千早くん座って。全て、話すよ」
芽衣ちゃんはすっきりとした、ある種晴れやかな表情を浮かべてソファを示した。
俺の知らない何かを芽衣ちゃんは知っている。そして、それは今から明かされる。そんな気がした。
芽衣ちゃんの明るさが、かえって不気味だった。
◆
「────まずね、ボクは未来から来たんだ」
芽衣ちゃんの第一声は、どこかで聞いたようなコテコテのセリフだった。
「まだ何も言わないで。分かってるから。何言ってんだって思ってるよね。何か悪いものでも食べたのかって」
芽衣ちゃんは俺の空気を察したのか、手を突き出して機先を制してくる。
…………まあ、そこまでは思ってないけれど心配ではあった。俺の行動で芽衣ちゃんがここまでショックを受けてしまったのかという方向で。
テーブルに用意された背の高いグラスの中で氷がカラン、と音を立てて踊る。芽衣ちゃんはココアを一口飲むとゆっくりと口を開いた。
「未来と言っても、今この瞬間からの未来じゃない。そういう意味では別の世界から来た、と言った方が良いのかもしれないね」
芽衣ちゃんは無理をしているようには見えなかった。寧ろ、かなりリラックスしているように見えた。俺とは反対にとても落ち着いていた。
言っていることはトンデモなのに、不思議と嘘を言っているようには思えなかった。
「────その世界ではね、千早くん。キミはこおりちゃんと付き合っていた」
「…………え?」
芽衣ちゃんから告げられたのは衝撃的な言葉だった。
…………俺が?
こおりちゃんと?
いやいや待ってくれ、どんな冗談だよ。
「本当だよ。現にほら、この世界でも
芽衣ちゃんはテーブルに置かれた今回の犯行道具────俺のスマホだ────を指差す。
ルインの友達欄。か行の『神楽芽衣』…………その次に並んでいるのは『木崎菜々実』。こおりちゃんの中の人だ。通常知り合うことなんか出来る訳もない推しとファンが、確かに繋がっていた。
「それはそうだけど…………でも」
付き合うとかどうとかは別の話だろう。見るからに住む世界が違いそうな菜々実ちゃんが俺と付き合う理由が何一つ思い浮かばなかった。まあそれを言ったら芽衣ちゃんもそうなんだけど……。
「信じてくれなくてもいいけどさ。まあそれはともかくとして、その世界でボクは失恋したんだ」
「…………失恋?」
彼女である芽衣ちゃんの失恋というフレーズに、どうしても心が切なくなる。
芽衣ちゃんがいたというその世界で、芽衣ちゃんは俺以外の誰かの事が好きだったんだ。
「えっと…………誰に…………?」
聞いてもどうせ分からないのにそんなことを口走っていた。聞いたのは俺なのに、誰の名前も聞きたくない気持ちだった。
芽衣ちゃんはグラスを手に取ると────迷った末口を付けずにテーブルに戻し、代わりに俺の顔に視線を合わせた。
「────キミだよ、岡千早くん。ボクは、キミの事が好きだったんだ」
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