ご近所さん

「は、え、なんで…………え、ていうか大丈夫!?」


 突然の事態に頭が回らず言葉が流れては消えていく。結局口から出たのは心配の言葉だけだった。

 さっきまで配信していたこおりちゃんがどうしてうちの前にいるのかは分からないが、とにかく何かトラブルに巻き込まれていないかが気になった。


「岡さんこそどうしてこんな時間にここに────痛ッ」


 こおりちゃんは立ち上がろうとして────痛みに顔を歪めた。立てないと判断したのか足首を抑えて座り込んでいる。


「え、えっと無理しないで下さい! 足痛むんですか!?」


「ちょっと捻っちゃって。あはは……ドジですよね」


 こおりちゃんは苦笑いしてるけれど、かなりの痛みに耐えているのは明らかだった。額には汗が浮かんでいる。


「ところで岡さんどうしてこんな所にいるんですか? もしかしてこの辺りにお住みに?」


「え、えっと…………はい。ここに住んでます」


 漏れ出る光で俺たちを僅かに照らしてくれているマンションの入り口を指さす。薄っすらと照らされたこおりちゃんの顔が驚愕の表情に変わった。


「え、えええぇええええ!? めちゃくちゃご近所さんです!」


「え、そうなんですか!?」


 ついさっきまで配信をしていて、飲み物を買ってくると離席したこおりちゃんがここにいるんだからつまりはそういう事なんだろうが、事が事だけに素直に受け入れられなかった。


「はい! あの、私そこのマンションに住んでるんです。もしかしたら何度か顔を合わせてるかもしれません」


 こおりちゃんが指差したのは数十メートル先の高級マンションだった。


「え…………マジか」


 俺は呆気に取られ、こおりちゃんが住んでいるというマンションをぼーっと眺めることしか出来なかった。


 だって信じられるか!?


 推しがすぐそこに住んでいたんだぞ!?


 そんなこと…………ありえないだろ普通。


「凄い偶然ですよね…………あの、マンションを教えちゃった所で一つお願いがあるんですが……」


 視線を戻すと、こおりちゃんが気まずそうに俺を見上げている。


「お願い? 俺に出来ることなら何でも言ってください」


「ありがとうございます……! えっと……そこまで肩をお借り出来ればな、と。ちょっと一人では歩けそうになくて」


「ああ、それくらいなら全然大丈夫ですよ」


 推しのお願いだ、当然即答して────我に返る。


 …………肩を貸す?


 肩を貸すってあれだよな?


 あの…………二人三脚的な。


 …………あれって、結構身体を密着させないといけないんじゃ……?


「えっと…………俺はどうすれば……?」


 はっきり言おう。


 俺は女の子に慣れていない。


 芽衣ちゃんと付き合うようになってある程度は慣れてきたけれど、それは芽衣ちゃんが相手だからであって。


 なんというか……信頼関係というか。心を許してるからというか。芽衣ちゃんになら何をされても何を見られてもいいと思っているから、こっちも落ち着いていられる訳で。


 それが別の女の子…………それも推しが相手となると、緊張でガチガチになるのも無理ない話なのだ。


「えっと…………しゃがんで貰ってもいいですか? 掴まらせて頂ければ……」


「ああ……了解。しゃがめばいいんだね」


 言われるがままこおりちゃんの傍に腰を下ろすと、ぎゅう…………と柔らかい感触が俺を襲った。


 何も考えるな岡千早。無になれ。虚無を身に降ろすんだ。


「…………あの、岡さん?」


「ん!? ええええっと……何かな!?」


「えっと、立ってもらっても大丈夫ですか?」


「ああああオッケーオッケー、了解」


 俺は音声認識のロボットのようにゆっくり立ち上がった。こおりちゃんは片足を宙に浮かせて器用に立っている。


「歩いて大丈夫かな?」


「はい、お願いします」


 音声認識機能を利用して俺はゆっくりと歩き出した。

 ……身体に密着している異様に柔らかい感触は感覚遮断機能を使って極力頭から排除した。人間の機能に感覚遮断機能があって本当に良かった。


 たった数分のはずだったが体感では数時間に感じられたその短くも長い道中を歩き切り、俺たちはこおりちゃんが住むマンションまでたどり着いた。ただ足を前に出すマシーンに身をやつしていた為、道中の記憶はほとんどなかった。


「────ここで大丈夫です。本当にありがとうございました」


 こおりちゃんは俺からパージすると片足歩きでエントランスに寄って行く。壁に手をつくと器用にこちらを振り返った。


「こちらこそ、助けられて良かったです。こおりちゃんがトラブルに巻き込まれなくて」


「あはは…………外でその名前で呼ばれると、なんだか恥ずかしいですね」


「あっ、そうですよね……! すいません気が利かなくて……」


「────菜々実って呼んでください。お昼にも自己紹介させて頂いたんですが、私木崎菜々実といいます」


 こおりちゃんの提案に背筋がビクッと震えた。勿論、これから起こることを想像して緊張したからだ。


 …………こおりちゃんを名前で……?


 頭がクラクラした。精神的ダメージを鑑みれば出来れば断りたいが、断るのも何だか気まずい気がした。


「えっと…………じゃあ菜々実ちゃん、で」


「はい! あの、連絡先聞いても大丈夫ですか? 今日のお礼をさせてください」


「あ、はい。大丈夫です」


 言われるがままスマホを差し出し、俺たちは連絡先を交換した。


 こおりちゃん、じゃなかった菜々実ちゃんと別れ、幾分グレードの低い自分のマンションに向かって歩き出す。

 歩きながら「あれ……? これ浮気になるのか……?」と少し不安になると、何だか無性に芽衣ちゃんの顔が見たくなった。

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