木崎菜々実との出会い

「…………え」


 全身が凍り付いた。

 さっきまでふたりで暖かい陽だまりの中に居たはずなのに、ボクはいま、冷たい氷の上にひとり立っていた。


「そ、そうなんだ」


 辛うじてそう口に出来たのは、いつかはこんな日が来るかもしれないと、この不当な幸せはいつか失われてしまうのだと、心のどこかで覚悟していたからかもしれない。


「一応伝えておいた方がいいと思って」


「…………どうして?」


 千早くんの腕にしがみついて、ぎゅっと力を込めた。

 どれだけ強く抱きしめても心の隙間は埋まってくれなかった。


「俺がこおりちゃんのファンだってこと、芽衣ちゃん知ってるでしょ? だから後から知ったら不安にさせるかなと思ってさ」


 それは…………確かにそうだ。

 今これだけの衝撃を受けているんだもん。もし隠されていたらと想像すると、それだけで身が震えた。


「────大丈夫だよ」


 頭の上の暖かな感触に、辛うじて現実に引き戻される。

 千早くんの大きな手が、優しく、優しく、ボクの頭を撫でていく。


「…………ん」


 脱力して、身体が強ばっていたことに気がついた。


「俺が好きなのは芽衣ちゃんだけだよ。こおりちゃんは確かに推しだけど……推しはあくまで推しだから。恋愛感情なんてないよ」


 …………千早くんの言うことは、もっともだと思う。ボクだって普通なら「そうだよね」って安心出来たはずなんだ。


 でも、今回だけはどうしても不安が拭えない。だってそれもそのはずで。


 ────千早くん、キミは本当はこおりちゃんと付き合ってるはずだったんだよ。


 千早くんからこおりちゃんを奪ったのは────他でもない、このボクだ。


 それがボクの罪。未だ裁かれぬその罪は、いつか来る審判の日を怯えながら待っている。


「…………ごめんね、千早くん」


「? どうして謝るのさ。芽衣ちゃんは何も悪くないよ。逆の立場だったら俺も不安になると思う」


 違う、違うんだよ。


 ボクは、本当はそんな優しい言葉をかけて貰えるような人間じゃないんだよ。好きな人の幸せを奪ってしまうような酷い奴なんだよ。


 千早くんの笑顔を見る度に、心の奥が軋む。


 けれど。


 何より醜いのは────それでもなお千早くんと一緒にいたいと思ってしまう、ボクの弱い心だった。


 離れたくない。


 一緒にいたい。


 ボクはいつからこんな弱い人間になってしまったんだろう。


 千早くんと付き合うまでは、恋人が出来たらボクがリードするんだろうなって思ってた。会いたいよとせがむ彼氏に、仕方ないなあなんて余裕の態度で対応している自分を想像していた。


 ところが蓋を開けてみたらどうだ。

 ボクは心の芯までずっぽり千早くんに依存してしまっている。千早くんも最近はボクの性格を理解して思い切り甘えさせてくれるようになってしまった。


 ────ボクは千早くんの負担になっていないだろうか。


 嫌われたくない。


 重い彼女だと思われたくない。


 それでも…………離れたくない。


 恋がこんなに辛いものだなんて思わなかった。


 でも、恋を失うのはもっと辛かった。


 もし千早くんがこおりちゃんに惚れてしまったら…………ボクは、どうすればいいんだろう。


「…………千早くん────今日は泊まってってよ」


 こおりちゃんに会って欲しくない────なんて言える訳もなく、代わりにボクは愛を求めた。





 ────美少女だった。


 木崎きざき菜々実ななみと資料に記載されたその子は、彼女のバーチャル配信者としての姿である氷月ひゅうがこおりに負けず劣らずとても整った顔立ちをしていた。


「ああ、ええと────」


 推しとの対面に俺の頭の中は真っ白になっていた。二の句が継げないとはこのことか。


「────岡さん。此度もよろしくお願い致します」


 平田さんのとてもビジネスじみた言葉で、パニック寸前の頭がまるで冷水を浴びせられたように沈静化する。なんとか思考を仕事モードに切り替える。


「────平田さん。よろしくお願い致します」


 こじんまりとした会議室にいるのは四人。

 俺と姫、姫のマネージャーの平田さん、そして…………こおりちゃん。


「まさかななみんと一緒にお仕事出来るとは思わなかったなあ」


「私も真美さんとお仕事が出来て嬉しいです。こういうのあんまり慣れてないので、ちょっと緊張していますけど」


 姫とこおりちゃんが話し始める。二人はオフコラボでは親密そうに喋っていたけど、愛称で呼ぶくらいリアルでも仲が良かったんだ。


「…………」


 推しを前に、どうしてもこおりちゃんを目で追ってしまう。

 あのこおりちゃんが目の前にいる、という現実を脳がまだ認識しきれていなかった。

 少しずつ、少しずつ、脳内にその事実を刷り込ませていく。


「…………!?」


 不意にこおりちゃんと目が合う。こおりちゃんはこちらの視線に気が付くと小さく頭を下げた。


「えっと…………今回はよろしくお願いします。企業さんとのお仕事はあまり慣れてなくて、ご迷惑をお掛けするかもしれませんが……」


「い、いえ…………! こちらこそ、よっ、よろしくお願い致します……!」


 推しに話しかけられあたふたしてしまう。声は無様にも裏返ってしまった。控えめに言って死にたい。


 推しと直に会話したという激流のような達成感と、その推しにかっこ悪い所を見せてしまった羞恥心がないまぜになって俺の心をミキサーしていた。


「岡さん、何か私達の時と反応違くないですかー? 前回割と淡々としてましたよね?」


 姫は慌てふためく俺をじーっと眺めると、爆弾を投下した。


「あ、そっか。真美さんは二回目なんでしたっけ」


「うん。この前のありすとバレッタとの動画が一回目のやつ」


「あ、それ観ましたよ」


 二人は楽しそうに笑い合っている。まるで姉妹みたいだった。


「────で、私達って仕事の打ち合わせに行くとさ、ありがたいことに結構声掛けられるんだ。配信観てます〜とかファンです〜とか。でも前回の打ち合わせの時は珍しくそういう声掛けられなかったから、私もまだまだ頑張らなきゃなーと思ったのを覚えてるんだよね」


 姫はそう言うと俺の顔をまじまじと見てきた。心なしか口の端が嫌らしく吊り上がっているようにも見える。


「もしかして…………岡さんってななみんのファンだったりしません? 明らかに反応が違う気がするんですよねー…………」


「うっ…………」


 俺はもう精神がいっぱいいっぱいだった。

 ただでさえこおりちゃんを前に仕事モードを保つのが精いっぱいなのに、その推しに自分がファンだと知られるなどというイベントは完全に俺のキャパシティを超えていた。


「えっ、そうなんですか!? 嬉しいです、私自分のファンの方に初めてお会いしました!」


 こおりちゃんがデスクの対面からずいっと乗り出してくる。

 突然の接近に俺の心臓は火星あたりまで飛んで行った。


 「人間は推しに一メートル以内に近づかれると死ぬ」ことを身をもって実感した。


 泡吹きそうだ。


 誰か助けてくれ。

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