暗闇の中

 普段気にしたこともない電車の速度がやけに遅く感じる。ああもう、もっと速く走れないのか。


 せわしなくツブヤッキーを開いては閉じて、開いては閉じてを繰り返して、合間に芽衣ちゃんのルインを確認して。


 気が付けば電車は芽衣ちゃんが住むタワーマンションの最寄り駅に到着していた。既読はつかないままだ。

 

 むわっと蒸し暑い真夏の夜の空気が風呂上がりの肌を不快に湿らせていく。俺は駅のホームの硬い感触を足裏で感じながら、少し冷静になっていた。


 ────俺が今からやろうとしていることは、果たして芽衣ちゃんの助けになるんだろうか?


 ────的はずれな行動だったりしないか?


 例えばルインの既読が付かないのはお風呂に入っていただけ、とか。


 疲れて寝落ちしてるだけとか。


 たまたま見てなかっただけとか。


 いくら即レスが基本の芽衣ちゃんとはいえ、普通に考えて一時間前後既読がつかないことなんてままあるだろう。


 俺と話すような気分じゃないだけかもしれないし。


 焦って芽衣ちゃん家のドアを叩いて────出てくるのはキョトンとした顔の芽衣ちゃんだったら、俺は凄く恥ずかしいやつじゃないか?


 なんなら迷惑だったりしないか?


 俺が一番嫌いな『勘違い男』に、俺は今なろうとしているんじゃないか?


「…………」


 あれだけ急いていた足が、ぱたりと止まる。


冷静になれば俺は頭のおかしい奴だった。


 小一時間ルインの返信が無いだけで自宅にくる変な奴。


 それが今の俺。


 …………どうだ。


 これで俺が空気を読み間違えていたら、俺は芽衣ちゃんに気持ち悪がられてしまうんじゃないか?


 勝手にあれこれ暴走して、急に、それも夜遅くに自宅を訪問してくる奴がいたら、俺だったら付き合いを考える。少なくとも金輪際こっちから連絡しようとは思わない。連絡先をブロックするかもしれないし、俺が女性なら引っ越しを考えるかも。


 それが普通。それが世間の感覚だろう。


 芽衣ちゃんだってきっとそういう普通の感覚で生きているはずだ。


 つまり俺が今からやろうとしていることは、折角仲良くなった芽衣ちゃんとの繋がりを完全に断ち切ってしまうかもしれなかった。


 それは想像するだけでとても怖いことだった。


「…………」


 …………帰ろうぜ、岡千早。


 何か変な使命感に駆られて家を飛び出したけれど、最後に冷静になれて良かったじゃないか。


 お前、一番なりたくなかった『勘違い男』にもう少しでなっちまうところだったんだぜ?


 最後に踏みとどまれた、自分の理性に感謝しろよな。


「…………そう、だよな」


 ルインを開いて、少ない友達欄をゆっくりとスクロールする。


 すっかり見慣れた『神楽芽衣』の文字を見つけて指が止まる。


「…………」


 芽衣ちゃんと知り合って、仲良くなった期間はまだ短いけれど。


 向日葵みたいな芽衣ちゃんの笑顔が、強烈に脳裏に張り付いている。


 聴いているこっちまで元気になるような明るい声が、今も頭の中に鳴り響いている。


 そんな芽衣ちゃんに嫌われるのは嫌だ。折角出来た大切な友達なんだ。


 出来ればこれからも、願わくばずっと、一緒に居たい。


 そんな関係を自分から壊すなんて────


「────いいよ、それならそれで」


 思い切り地面を蹴った。


 勘違いならそれでいい。


 いわれない誹謗中傷に心を痛めている芽衣ちゃんはいないってことだから。


 その時は、ネットの書き込みを真に受けないで、と一言言って去ろう。


 それで嫌われたって、もうそれはいいさ。


「…………」


 俺は何故か清々しい気分だった。


 今芽衣ちゃんが悲しんでいないのなら、それに越したことはなかった。


 それだけが俺の願いだった。


 改札を出るぴよぴよという音さえも、俺を応援しているような気がした。





 どれほど時間が経っただろうか。


 五分?


 一時間?


 それとも────一日?


 真っ暗なリビングの、冷たい無機質な壁に乱暴に背中を預けて…………気が付けば膝を抱えていた。


 涙に濡れた胸元が膝に当たって、そこだけやけに冷たい。


 「…………」


 暗闇は好きじゃない。なんだか寂しい気がするから。


 でも今だけは心地よかった。


 情けない自分が暗闇に溶けて消えていくようだった。このまま消えてなくなってしまえばいいとすら思う。


 何も成せないボクは、そんな終わり方がお似合いだ。


「…………声、聞きたいな……」


 けれど、ボクはやっぱり強くないみたいで。


 自分のことをどれだけ責めても、心のどこかで許されようとしてる。


 失敗しても尚、千早くんの隣に居たいと願ってしまう。


そんな甘い感情が、傷口にじゅくじゅくと染み込んでいく。


「…………」


 どこにやったか思い出せないスマホを探して、千早くんに連絡しよっかな。


 大会悔しかったーなんて泣きついて、優しく慰めてもらおっかな。


 優しい千早くんのことだから、きっと気が済むまでボクの話を聞いてくれるはずだよね。


よし、そうと決まれば今すぐ連絡しよう。こんな悲しい気持ちとは今すぐサヨナラしよう。


「…………出来ないよ…………そんなの……」


 それが出来るのなら、ボクは今頃こんな冷たい床の上で膝を抱えてたりしない。


 そんな器用には、ボクの心は出来ていなかった。


「会いたいな…………」


 思い出すのは、前世の記憶。


 大会の後、優しく抱きしめてくれた。


 温かくて大きな千早くんの腕の中。


 あの温もりすら、今は失ってしまった。


 ────なんだ、前回より酷いじゃないか。


 そう考えたら、情けなくてまた涙が出てきた。


 このまま干からびて死んじゃうんじゃないかな。

 それくらい今日は涙が出る日だ。


 ────だから、少し反応が遅れてしまった。


「…………え……?」


 ピンポーン、と決してこの時間に鳴るはずのない音がリビングに響く。


 音の鳴る方に目をやると、暗闇の中、そこだけ四角に切り取られたように明るい。

 強烈な明るさについ目を細めてしまう。


 それがインターホンのカメラ画面だと認識するのに、少し時間がかかった。


「…………うそ……なん、で……」


 幻覚でも見ているんだろうか。


 そこに映っていたのは、不安そうにキョロキョロと周囲を見回している想い人の姿だった。

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