水面の下
どこよりも落ち着けるはずの自分の家が、今はまるでどこか知らない海の底。
僅かに聞こえる浅い呼吸音とともに肺を満たす空気はどこまでも冷たくて、ボクから熱という熱を奪っていく。
「────負け、ちゃった」
受け入れたくない事実を目の前にして、ボクは自らを傷付けることで許しを乞おうとしているんだろうか。
この世の終わりのような心に事実を何度も、何度も、擦り込んでいく。
「────負けた、んだ」
千早くんと付き合う為に神様がくれた贈り物。
それがこのやり直し。
それも叶えられないとなると、この世の終わりは言い得て妙だった。
「…………はは」
漏れ出るのは乾いた笑い。驚くくらい自嘲に満ちていた。
「………ぁはは、は、はは…………っ」
悔しさか、悲しさか。
それとも情けなさか。
震える声に混じった名状しがたい感情が、深海に沈んだ胸をより冷たい何かで満たしていく。
「ははっ…………あは、はっ」
壊れてしまったんだろうか。
どうにも止まらない涙が胸の辺りに大きな染みを作っていく。
「泣くな泣くな泣くなッ!」
感情のままに叫ぶ。声は誰にも届かない。
悲しいほどに広いリビングに溶けて消えていった。
「ぅ…………ぁ…………っ」
泣く権利なんて、ボクにはないんだ。
ボクは一度失敗した。
なのにボクはここにいて、千早くんと仲良くなんてしちゃってる。どれだけ幸運なことかボクは身に染みていたはずだった。もえもえへの罪悪感を感じない日は無かった。
それでもボクは千早くんに告白すると決めたんだ。
決めたはずだった。
それなのに。
────ボクは二度目のチャンスも無駄にしてしまった。
千早くんのことだけじゃない。
────ボクのせいでまた負けちゃった。もえもえの足を引っ張ってしまった。あの時の悔しさは今も胸に残ったままだ。
何一つ、変わらない。
やり直しても、ボクはボクのままだった。
◆
『────というわけで、今日の配信はこの辺で終わるね! …………ボクのせいで優勝出来なくて本当にごめん! 暫く鍛えてきます! それじゃ!』
デフォルメされたありすちゃんの静止画が画面いっぱいに表示される。
配信終了画面になったディスプレイを俺は暫く眺めていた。
「…………」
色々なことがあった。
こおりちゃんとありすちゃんの一騎討ち。
第一回大会から続くこおりちゃんと姫、その視聴者の因縁。
芽衣ちゃんと過ごした花火大会。結んだ約束。
それら全てが、今、終わったんだ。
「…………」
ディスプレイには変わらずありすちゃんが表示されている。デフォルメされてもひと目で元気な子だと分かる。ありすちゃんは芽衣ちゃんそのままの明るい配信をモットーにしているんだ。
「…………」
俺の心を包んでいるのは、こおりちゃんが優勝した喜びではなかった。
いや、それもある。あるにはあるんだが…………大部分を占めているのは別の感情。
「芽衣ちゃん…………大丈夫かな」
スマホを掴むとツブヤッキーの検索欄に「ありす」と打ち込む。
『ありすちゃんホント惜しかった! でも初心者なのに準優勝凄すぎる』
『ありすちゃん感動をありがとう! 次の大会も楽しみ!』
『バレッタとありすちゃんのコンビがまた観たいーーー』
表示されるのは主にありすちゃんファンのポジティブな呟き。大会後のどこか祭りのような雰囲気が呟きにも漏れ出していた。
ポジティブな呟きばかりなら問題ない。何の心配もなかった。
でも、そうはならなかった。
『あれ勝てないのは流石に萎え。足引っ張んなよ』
『二度とエムエムやんな』
『バレッタの二連覇観たかったわ。次はちゃんとした人と組んでほしい』
胸がキュッ……となった。
脳裏に浮かぶのは前回大会での姫に対しての荒らし。あんな悲惨な状況に芽衣ちゃんがなってしまうのを想像すると、心がざわざわした。
芽衣ちゃんは今頃ツブヤッキーで自分のことについて検索していたりしないだろうか。心無いメッセージを観てしまっていないだろうか。否定的な呟きなんてほんの一握りで、大半は大会を楽しんで観ていたことに気が付いてくれるだろうか。
俺はルインを開くと何かに急かされるように芽衣ちゃんの名前を探した。言葉を迷う余裕もなくて、思いつくまま労いの言葉を送信する。
芽衣ちゃんは常にスマホを手元に置いているのかと思うほど即返信がくるから、このメッセージもすぐ届いてくれるはず。
「…………シャワー、浴びるか」
ネットに触れていると俺までダメージを受けてしまいそうで、俺はスマホをベッドに放り投げると着替えを無造作にひっつかんで洗面所に歩きだした。
◆
「既読、付かないな…………」
水道料金が不安になるほどの長シャワーを終え、当然来ているものだと思っていた芽衣ちゃんからの返信を確認すると、メッセージは未読のままだった。
心に冷たい突風が吹く。
少しの間返信がないくらい普通だろ、と思うかもしれないが芽衣ちゃんは本当にいつでも即返信してくるんだ。早朝でも、深夜でも、配信中でも。
「…………」
見なければいいのに、ツブヤッキーを見てしまう。
「…………くそ」
見るに耐えず、すぐ閉じた。
決して少なくないありすちゃんへの誹謗中傷に、人間の汚さ、自分勝手さを呪わずにいられない。
同時に、あの日の夜が、大輪の花火の下で儚げに笑う芽衣ちゃんが、フラッシュバックする。
────会いたい。
────傍に居たい。
もし芽衣ちゃんが誹謗中傷の中にいるのなら、その綺麗な顔が悲しみに歪むことがあるのなら、今すぐ傍に駆け寄ってその小さな体を支えてあげたかった。
「…………ああもう!」
シャワーを浴びたのは失敗だった。どうやら俺はこれから汗をかくことになるらしい。
俺は着替えると、本能のままに家を飛び出した。
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