奇跡があるとするならば

 ある日突然、知らない誰かの記憶が流れ込んできたことはあるだろうか。


 それはボクの意志なんてお構いなしに頭の中を乱暴に駆け巡り、現実と夢の境界をぐちゃぐちゃに壊していく。


 全てが曖昧になっていく。何もかもが夢であるような気さえした。


 ────そして、ある瞬間に気付く。気付かされる。


 これは…………ボクの記憶だって。


「…………千早…………くん」


 意識が。


 思考が。


 あの日のボクとリンクする。


 もしも世界に奇跡というものがあるのなら、それはきっとこういうことを言うんだろう。





 意識を取り戻して────自分が意識を失っていたことに気が付く。


 …………何かは分からないけど、何かが起きた。気味の悪い悪寒が背筋で蠕動している。


「…………」


 きょろきょろと周りを見回して状況を確認する。


 ボクの部屋だ。

 電気が消えていてよく分からないけどレイアウトが少し違う気がした。


「…………え?」


 次の違和感は、肌。


 エアコンから吹き付ける風が…………冷たい。


 今は冬のはずだ。冷房をかけることなんてありえない。


「…………っ!?」


 何かに急かされるようにスマホをひっつかむ。バックライトに照らされたそれはあり得ない事実を示していた。


「…………七月…………!?」


 スマホをベッドに放り投げリビングに走る。

 このタワーマンションの売りの一つであるパノラマビュー。それを実現する大きな窓の一つを、思い切り開いた。


「…………うそ」


 肌に纏わりつく不快な感覚は、高温多湿な日本特有の夏の夜の空気。身体全体が『今は夏だ』と告げていた。


 …………いくら頭の中を整理しても、答えなんて出るはずもなく。


 どういう事かは分からないが、どうやらボクはタイムスリップしたらしかった。





 一度事実として認めてしまえば、ボクは案外素直に現状を受け入れることが出来た。焦っても仕方なかったというのもある。


 ────それに何より。


 スマホのスケジュール帳を開く。

 三日後の欄に記載されているのは「〇〇社打合せ」の文字。


 もう何度も見返してしまってる。その文字を見る度に、ボクの心臓はドクンと跳ねるのだった。


「…………千早くん」


 つい、その名を呼んでしまう。


 かつてのボクは間違ってしまった。


 自分の気持ちを曝け出す勇気がなくて、その結果失恋することすら出来なかった。


 勇気を振り絞って、その結果ちゃんと失恋したもえもえは凄く前向きになったように見えた。ボクと違って千早くんのことはしっかりと振り切っているようだった。


 それに比べてボクは自分の気持ちにしっかりとけりをつけられないまま、決して治る事のない傷が今でも心のどこかで血を流していた。


 もし、過去に戻れるなら。


 その時は精一杯自分の気持ちを伝えよう────そう悔やんだ夜は一度や二度じゃない。


 …………このタイムスリップは、神様がボクの願いを聞き入れてくれたのか。


 もしそうなんだとしたら、神様という存在を信じてみてもいいかなって思う。


「…………よし」


 今回は、絶対に後悔しない。


 ボクは千早くんと────幸せになるんだ。





「ちは────じゃないえーっと…………初めまして、不可思議ありすです。よろしくお願いします」


 緊張でそわそわしている千早くんの姿があまりにボクの記憶の通りで、つい名前を呼んでしまいそうになる。


 目を合わせると、千早くんが驚いた様子でボクの事を見ているのが分かった。


 ふふん、髪は昨日美容室で巻き直して貰ったし、服だって一番自信があるものを着てきたんだから。

 少しは見惚れてもらわないと困るというものだった。


 でも、嬉しいな。好きな人に見てもらえるのは。


「初めまして。魔魅夢まみむメモです。本日はよろしくお願いします」


 姫が他人行儀に頭を下げる。

 その姿にボクは違和感を覚えた。


 姫、千早くんに対してこんなに他人行儀だったっけ。確かこの頃は既に顔見知りだったんだよね?

 ボクの記憶が確かなら姫と千早くんが知り合いで、その流れでボクたちも千早くんと連絡先を交換したはずだ。


 でも姫の対応は普段の仕事モードだった。特別な雰囲気は全く感じられない。


「…………?」


 後が続かずもえもえの方に目をやると、もえもえはもじもじと視線を彷徨わせていた。


 ああそうか、この頃はバッチリ人見知りだったもんね。

 今はすっかり人前にも慣れて、むしろ僕が引っ張られるくらいだから何だか新鮮だな。


「ほら、バレッタの番だよ」


 もえもえの袖をちょんちょんと引っ張る。

 ボクに急かされて、もえもえはやっとの思いで口を開いた。


「あ、えっと……バレッタです……。きょ、今日はよろしくお願いしますっ」


 がばっと勢いよく頭を下げるもえもえ。かわいいなあ。


 全員の自己紹介が終わると、千早くんは頭を何度か振って気合を入れ直しているみたいだった。

 有名バーチャル配信者が何人もいたらそりゃ緊張するよね。


「自己紹介ありがとうございます。それではお手元の資料をベースに打ち合わせを進めさせて頂きますね」


 そう切り出した千早君に釣られ、皆は資料に目を落とす。

 ボクはこの資料は過去に見たことがあるから、代わりに千早くんを見つめることにした。


「…………」


 緊張しながら資料の説明をする千早くんをじーっと眺める。


 うーん…………やっぱり顔は全然イケメンって感じじゃないんだよなあ。背だって普通くらいだし。


 女の子の扱いだって慣れてるとは言えないよね。

 …………据え膳、食べなかったし。


 冷静に考えると、どうして千早くんの事を好きになったのか分からない。


 でも、どうしようもないくらい好き。恋って意味が分かんないね。

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