私のスケジュール帳は、バイトのシフトによってほぼ埋め尽くされている。


 バイト先は家の最寄り駅近くの花屋で、一年の春から働き続けている。

 学校では園芸部、外では花屋のバイト。こうして考えてみると、毎日が花に囲まれている生活だ。


 平日は定休日である火曜日を除いて二日か三日、授業が終わってから閉店まで、

 土日は開店から夕方までか昼過ぎから閉店までのどちらかの時間で働いている。


 働き始めた理由は、店長をつとめている人がちょっとした知り合いで、「よかったら働きませんか」と誘われたからだった。

 どうしてもバイトがしたいというわけではなかったけれど、休日に暇を持て余していた私はすぐに二つ返事で了承した。

 後で聞けばその時は特に人員不足というわけでもなかったようで、私を誘ったのはただの思いつきだったらしい。


 アルバイトというだけあって業務はそこそこ楽なのだと思う。他の花屋のことは知らないので詳しくは分からないけれど、たいして疲れはしない。

 開閉店の作業、水揚げ、接客、レジ打ち、ラッピングにアレンジメント作り……。そこそこすぐに覚えられることのみで、一切の面倒事は店長やパートの人がやってくれている。


 それで給料をもらえて余ったお花までもらえるのだから、学生としては少し長いかもしれない労働時間でもかなり満足していた。


 今日は土曜日。そして今はお昼休憩の時間だった。

 華やかな売り場と違って事務所の中に置いてある物は多くなく、雰囲気はまるで異なっている。

 冬場は暖房が入っているため、休憩になったらすぐに事務所に駆け込むことが多い。

 売り場は冷蔵庫くらいに寒くて、とてもじゃないが上着を脱いだままではいられない。


 がた、という音とともにドアが開いた。

 目を反射的に音の方向へと向けると、私と同じように昼休憩に入ろうとしている店長が肩を手で抱きながら入ってきてきた。


「お疲れさまです」


「あ、はい。お疲れさまです」


 箸を止めて返事をする。私の隣に腰かけた店長──瑠奏さんは大きな包みを広げ始めた。


「どうかしましたか?」


「……いや、いつも思ってたんですけど、すごい食べますよね」


「むしろ霞さんの方が食べなすぎだと思いますよ」


「まあ……それは、そうかもですね」


「まだ高校生なんですから、少しくらい多く食べても損はないと思いますよ。霞さんは結構華奢ですし」


 そう言って、瑠奏さんはお弁当箱をこちらに差し出してきた。

 中には彩り豊かで綺麗なおかずが盛り付けてあった。食べろということなのだろうか。


「遠慮なく。どうぞ?」


「はい。じゃあ、その、いただきます」


 卵焼きを口に運ぶ。柔らかくて、普段食べるものよりも甘い味が舌を刺激する。

 瑠奏さんの作る料理はいつも美味しい。私が作っても多分この味にはなってくれない。


「お客さまからいただいたものもありますから、食べてくださいね」


 仕事のとき、瑠奏さんは誰に対しても敬語を使っている。崩しているのは見たことがない。

 あまり徹底していないが、従業員同士はなるべく敬語で話すという決まりがある。店長だから率先して守っているのだと思う。

 歳が二十代で、パートの人の方が年齢が上というのもあるのかもしれない。業界内でこのくらいの歳での店長はかなり珍しい、と以前誰かが言っていた。


 パートの人達や社員さんは、私にはほぼタメ口だ。

 学生バイトは歳と位が一様な分、接しやすいのか、それとも娘のような歳の差だからか。

 いずれにしても、どちらでもいい気がする。呼び方や敬語の程度では関係性はさほど変わったりしない。


「ところでですけど、秋ですね」


 と瑠奏さんは言った。


「もう終わりそうじゃないですか?」


「紅葉はまだしているので、わたし的にはまだ秋です」


「なら秋かもですね」


「ええ。落ち葉が出てきたら、手のひらいっぱいに拾ってぶわーってすると楽しいですよね」


「そうなんですか?」


「したことないんですか?」


 きょとんとした顔を向けられる。

 ないですね、と答えるな否や、瑠奏さんは小さく咳払いをして、再度こちらを見た。


「カエデ、モミジ、ミズナラ、コナラ、ハゼノキ。あとはヤマザクラやメグスリノキがあると、すごく楽しいですよ」


 大きな手振りで私に伝えようとしている様子はとても楽しげで、やっぱり自然が好きなんだな、と思った。


 たまに瑠奏さんのこういう無邪気さというか、天真爛漫さが垣間見えることがある。

 前はもう少し違ったというか、いやそれは私の見方とかが変わっただけかもしれないけど、ていうか多分そうなのだけど、とにかく。

 そのたびに、かわいい人だな、と思う。変な意味はなく、ただ単純に。


「今度やってみます」


「人が居ないところならいいですけど、道でやるときはくれぐれも気を付けてくださいね。

 何も知らない通行人の人に見られたりすると、すっごく怪訝な目をされてしまうので」


「実体験ですか?」


「いえ、違いますよ。わたしの友達の話です」


 瑠奏さんは話を切るように、瞳を細めながら微笑した。


「秋といえば、恋愛の季節じゃないですか」


 そして不意に、そんなことを言う。


「そうなんですか?」


「霞さんもせっかくの高校生、そして季節は秋。そういう楽しい話とかはないんですか?」


 一瞬だけ焦りかけた。が、それは表出するものではなく瞬きの合間に収まった。

 でも鋭いのか何なのか、タイムリーすぎるような話であることはたしかだった。


「ないですね」


「本当ですか? はぁー、そうなんですか」


「はい」


「そうなんですね。……まあでも、仮にそういうなにかしらがあったとしても、霞さんはわたしには教えてくれなさそうですけど」


 別にそういう意図はないのだろうけど、字面だけ追えば薄情だと言われているみたいだった。

 どう答えればいいのか迷う。受け流すにもタイミングが取りづらい人相手なので出来そうにもなかった。


「や、違いますね。わたしには、ではなくて、誰にでも、ですよね」


 瑠奏さんはにこりと目元を緩めて私を見た。

 当てずっぽうではないような、確信めいたような視線だった。


「でも、教えてくれなくて全然いいです。わたしも特にそれほど興味があるというわけでもないので」


「いやその、そういうのがあったなんて言ってないですけど……」


「ですね。あ、でもやっぱり気になるかもしれないです。霞さんに限っては」


「はぁ、どっちなんですか」


 適当に返事をする。


「ふふっ、霞さんは分かりやすいですね」


 なぜか楽しそうだった。


 他人の恋愛事情に興味を持ったことなんて今までなかった。だから、どういう心境で楽しそうにしているのかはまったく分からない。

 でも、知り合いならそういうことを気にして普通なのだとは思う。一般的に。私も友達の話を聞いているのは別に嫌じゃない。


 私が瑠奏さんの立場だったらと思うと、……まあ気になるのかな? 気にしてと言われたら気にしてしまうくらいには。


 瑠奏さんに恋人とか、そういう相手がいるとは聞いたことがない。

 親には「早く相手を見つけなさい」と言われていると、前に愚痴を零してきたことがあった。


 よく男性のお客さんからお花をもらっていたりするのは、あれはそういうのではないのかな。他にも、この机の上のクッキーとかもそうだし。

 嬉しいです、とにこにこしながら受け取っている姿を見るたびに、人徳というか愛想の良さのようなものを感じていた。


 定休日以外はずっと仕事をしているだろうから、どうしてもここでの印象ばかりになってしまう。


 なんかそういうのとか、嫌っていそうな──もしくは興味なさそうな感じがした。壁があるというか、恋愛は別に、みたいな。

 だから恋バナ(なのかな?)を振ってきたときは驚いた。意外と楽しそうなのでもうちょっと驚いた。


 会話が途切れてから数十秒後、お茶をずずっと飲んだ瑠奏さんは興味深そうな顔で私を見つめてきた。

 別のことを考え始めていたところだったから、少し反応が遅れる。まさかバレてはいないだろうけど。

「なんですか」、の「な」が出かかったところで瑠奏さんが声を出そうとしていたので踏みとどまった。


 それから何かを言うかどうか迷うような顔をして、結局言おうと決心をするように真面目な表情で頷いてから再度こちらを見てきた。


「霞さんはモテそうですよね、美人ですし、おっきいですしスタイルも良いですし」


 と言って、瑠奏さんは手早く片付けをして事務所から出ていった。

 躊躇ったのはなんでだろう、案外普通なことで拍子抜けする。考えれば分かる気がしなくはないけど、勘ぐりすぎかもとも思う。


 美人とかそういうのはお世辞だろうから置いといて、モテませんよ、とひとり呟いた。



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