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今朝先生と部活について話したからというわけじゃない。
週に一回は放課後部室に行こうと決めていて、それがたまたま今日だったわけだ。
クラスから少し遠いところにある部室はただの空き教室で、園芸部らしい設備などはなにもない。
あるのは教室の備品と、いくつかの花瓶。あとはほんの少しの私物だけで、一目見てすぐに活動的でないのが分かってしまう。
いつもと違うことといえば、物の少なさゆえに無駄に広く感じられる教室に私一人じゃないことだ。
桃を連れてきた。いつもは部活行くとなれば教室でバイバイだったけど、今日はそうはならなかった。
ホームルームが終わるとすぐに、桃はマフラーを私の前に出してきた。気のせいかもしれないが少しだけ気後れするように頬を赤くして。
今日も巻けなかったから巻いてほしい、という意味だと思った。だから、私が帰るまで待っててねってことでここまで引っ張ってきたのだった。
「初めて来たけど、なんかもう居心地いい」
「あー、私がいるから?」
「そうそう、むしろそれ以外にない」
冗談めかした笑みをこぼしながら、桃がすっと立ち上がる。ぐるっと部屋をまわるように歩き回って、窓の方へと近付いていく。
風によって膨み、不規則に揺れていたカーテンを手で抑えながら、反対の手で窓枠に触れた。
「ちょっと寒いし、閉めていい?」
「あぁうん、いいよ」
桃はゆるく笑って、窓とともにカーテンまで閉め切ってしまう。
こもった空気を換気するために開けていて、私も寒いなと思ったところだったのでちょうどよかった。
外から聞こえていた他の部活の声などが小さくなり、代わりに部屋の中の微かな音が耳に響く。
机の私から見て逆側の椅子には戻らず、こちらに向けて歩いてくる。
さっきまで風に乗って部屋中にただよっていた花の匂いが、より甘いものへと変わる。
私の横を通るとき、窓を開けたままだったら聞き逃していたような、か細い吐息が聞こえた。
「ふゆの髪、また戻ってきてるよね」
と言いながら、桃は私の肩に手を置いてくる。
「やっぱり?」
「うん」
「めっちゃオリーブオイルみたいな色になっちゃってる」
自虐するように言う。髪の内側の、染められている部分を梳く。
ワンポイントとかインナーカラーっていうのだったか。校則では特に髪色指定などはないため、目には付くだろうけど何も言われない。
どことなくお嬢様然としている人が多くて、そんなに分かりやすく染髪している人はいない。クラスの中でも数人くらいだったと思う。
でも染めている私も、べつに自分からすすんでってわけではない。
高校入学直後に初めて行った美容院で、私のことを大学生だと勘違いした陽気なお姉さんに言われるがままに染めてしまった。
意志薄弱なのと、大人っぽく見られたことへの微々たる嬉しさと、髪色なんてどうでもいいしという気持ちと。
一回染めたら染めたで芋づる式にお金と労力がかかってしまうことなんて考えていなかった。変に戻っていると嫌だから、すぐ染め直してしまうのだ。
耳を出す感じにサイドの髪を掻き上げて、桃の方へと持っていってみる。
「でも、さっきの授業中にね、色が落ちてきた感じもいいなって思ったの」
桃が明るい調子で言う。授業中にって……ああ、数学の授業の時かな。
その授業の時のように、桃が後ろから髪に触れてくる。抱いた感想はまあまあ同じだった。
そういえばいつだったか、髪色について桃の不評を買ったようなことがあった。
美容院のお姉さんに『絶対似合う! 似合います!』と言われるままにミルク色くらいの明るさにしたら、『えー……』みたいな反応をされた。
ちゃんと言葉にしてあれこれと言われたわけでもないけど、なんとなく伝わるものがあった。
自分の髪色に対してこれといってなにも思うところがなかったことも相まって、それからはなるべく明るいのは避けて暗めの色にするようにした。
「あ、もう編み込みはしないの?」
「んー、めんどいからしない」
「そっか、そっかー」
「下ろしてると、色が落ちてるの目立ちにくいし。あれはあんまり似合ってたとも思えなかったから」
「わたしは似合ってるなーって思ってたよ」
さらさらと私の髪を流していた指が止まり、手が肩に移動してくる。
染めている右サイドの髪を片編み込みにしていたのはたしかほんの数ヶ月だけだったのに、よく覚えているものだ。
桃は、しばらく変わっていない……はず。上品さを感じるタイプのサラサラストレート。美人だからより似合うやつ。
センターパートにしている時としていない時があって、今はしている。していた方が大人っぽさが増して私は好きかもしれない。
ていうか、私も意識していないだけでそこそこ見ているみたいだ。
「じゃ、気が向いたらしてくるよ」
「ほんと? うれしい」
桃の声が一段弾み、肩にかかっていた力がふわっと軽くなる。
首だけ後ろを振り向くと、中腰になっていた桃の身体がすぐ近くにあった。
「けど私だけなのはうーんって感じだから、そんときは桃も一緒にしようね」
視界の正面にある綺麗な髪を見て、そういう桃も見てみたいとちょっと思う。
旅は道連れではないけれど、自意識過剰にも誰かの期待がある状態で髪型を変えて……というのは一人では照れが入りそうだった。
桃が相手だからってわけではなく、そんな風な状況にある時点で。
「うん、うんうん。おそろいってことね」
「そうそう、おそろいってこと」
答えている間に、桃の表情がぱあっと華やいだ。
お揃いというのは桃にとって嬉しいことの一つなのかもしれない。多分。
「今から上行くけど、一緒に来る?」
「なにしに行くの? あっ水やり、かな」
「ううん、見に行くだけ。今やったら夜冷えちゃうから」
「そっか、たしかにそうだね」
立ち上がって、すぐに行こうと目で促す。
ちらっと見て戻ってくるだろうし、荷物はそのままでもいいだろう。
机上の鍵束を手に取り部室の外に出る。
出てから、本来なら事務か顧問のすべき鍵の管理を私がしていることの不思議さを思う。
なんでも、私の前の部長の時からそうなったらしい。先生が顧問になってから、ということだと思う。生徒よりも早く帰ってしまうから。
ほんの数年前までこの部活はそこそこ活動的だった、と人づてに聞いたことがある。
中庭の花壇と屋上庭園はその一種で、賑やかだった頃はこの部活が管理を一手に担っていたらしい。
でも今じゃそんなのは少しも見る影がない。黙っていても人手の獲得が容易な緑化委員会に中庭の管理は委託され、園芸部は、庭園と呼べるかも曖昧な広さになってしまった屋上の植物の管理だけを任されるようになった。
活動が減れば、当然のごとく予算は削られ、部員は減少……もともと多かったというのもよく分からないけど、今の三年生の代でついに入部希望者がゼロになってしまった。
らしい。……らしい。
頭の中で考えてみたけれど、特になにも思うところはない。
なにせ正直どうでもいい。以上。
屋上へと続く扉を開ける。空は暗くなりかけていて、外に出てすぐに「寒いね」と桃は私を見た。
「桃の家はもう暖房出した?」
「うん。ストーブと、あとコタツも」
「家の人みんな寒がりなんだっけ」
「そうそう。これから四月までずっとお世話になるはず」
「なるほどね」
「あ……ふゆも入りに来る?」
「どうして?」
「なんだか入りたそーな顔をしてるような気がしたから」
そう言って、桃はからかうようにくすくす笑う。
コタツへの羨望が顔に出ていたらしい。全然そういう感覚はなかったけれど……。
「なんてね、冗談じょーだん。ふゆとコタツを囲んでみたいなぁっていう、わたしの願望」
「……そっか」
目を逸らしてどんな顔をしていたのだろうと頬を触ろうとしたタイミングでそう言われると、なんていうか、不安になる。
「まあたしかに、コタツは魅力的だよね」
「ね」
他意や含意は本当にないみたいだったので気を取り直して返答し、曇り空を見上げて端の方へと歩き始める。
中庭を見下ろして、それから周りに目を戻す。桃は私については来ないで、塔屋近くのプランターの前に中腰の姿勢でいた。
「ここにあるお花って、全部ふゆが育ててるんだよね」
「うん、そうだよ」
「すごいね。綺麗だし、いろんな種類あるし、かわいいし」
ミニバラの八女津姫、グリーンランド・フォーエバー、ウインターマジック。イングリッシュローズのジュビリー・セレブレーション。トルコキキョウの森の雫……。
挙げていけばすぐに言い尽くせる程の種類だけど、ここにはいろいろな花がある。
身体はこちらを向いてはいないが、口調から桃が楽しそうにしていることが伝わってくる。
花や自然なんかを桃は好いていて、これまでも街中でそういうものを見かけた時に反応を示していた。
けどここで育てている、部活の花についての話をするのはこれが初めてだったと思う。
いつも通りの柔らかい足の運びで私の方へと向かってくる桃を目で捉えながら、少しだけ気恥ずかしくなる心の動きに気付いた。
「育てるのってやっぱり大変? ……あ、大変なのは大変だと思うけど」
「ううん、そうでもないよ。育て方は決まってるし、多少ほっといても育ってくれる花たちばかりだから」
「そうなんだ。んー、でも、すごいなーって思うよ。わたしは」
「……褒めようとしてくれてる?」
「うん」
「そう。……そうだね、ありがとう」
やっぱり今日はやたらと褒められる日らしい。
こんな日めったにない。というか初めてかもしれない。
普通に過ごしてて褒められるほど真面目でもないし、私を褒めることにメリットなんてほぼないように思える。
私はその時は少し嬉しくなるかもしれない。でもそれだけっていうか、言葉を貰ったところで還元できるもの──リターンの方法なんて知らない。
まあでも普通に考えて、今桃が褒めてきたことに打算とかはないのだろうけど。じゃあなぜ考えた? というと、なんでだろ。理由はない。
そういえば私だって、昨日桃のことを褒めたじゃないか。
姿勢とか綺麗だよね、って。咄嗟に何か言おうとして、出てきた言葉が桃を褒める言葉だった。
「桃が褒めてくれるの、実は結構嬉しい」
「嬉しいんだ」
「褒められることってめったにないからね。今だって嬉しさを噛みしめてる」
「ならもっと褒めようかな」
「そんなに私に褒めるところってあるかな」
「あるよ、たくさん」
自信ありげに頷かれる。わざわざ否定するのは自意識が強いみたいで嫌だったから、即座に「ありがとう」と口にしておく。
その上で、数とかを比べる気はないけど、桃の褒めどころとかいいなと思うところについて考えてみる。
「桃にもたくさんあるよ」
と試しに言ってみると、
「そっか。こういうのって、自分では分からないよね」
と少しの間の後に、苦笑混じりの言葉が返ってくる。
「で。それで……」
「それで?」
普通そうだよね、って同意しかけてたところだったが続きがあった。
「うん。えっと、たとえばー、とか、聞いてみてもいい?」
たとえば。
たとえばか。
「完全に私の好みになっちゃうけど、それでもいいなら」
「あ、うん全然……ていうか、むしろその方が聞いてみたいかも」
ハードルがぐんと上がった。わくわく顔? にこにこ顔? に桃の表情が変化する。
単純に容姿についてとかそういうことを言おうとしたけれど、それを眼前にしてしまうと何となく気が引けてくるものだ。
そう思って、出かかっていた言葉を引っ込める。言われ慣れているかな? と思ったのも束の間。もう脱線していることを考える。
どうせなら言われたことのないような言葉にしたいなと思ったのはどうしてだろう。たまに自分が謎に思える。
「……やっぱり面と向かって言うのは恥ずいから、言わないのはだめですか」
「だめではなくもないけど、わたしとしては、すっごくすごく気になるからだめってことにしてもいいですか」
「あーその、よくないです」
「よ、よくないですか……」
なんだろうこの敬語の応酬は。
こういう、私の変な振りに乗ってくれるところもいいところか。若干楽しそうな桃の様子を見て、私も自然に笑みがこぼれてくる。
いろいろと感性が合うよね、と真面目に冷静に普段から思っていることを考えてみると、容姿の次に浮かんでくるのはそういった類いの言葉だった。
でも、そういうのって言ってしまっていいのかという不安を抱く。私が勝手に思っている桃の内面についてのイメージを本人に言っていいのかと。
ていうかまず褒め言葉でもない気がするし……人を直接褒めるのって案外難しい。
「運動得意だよね、とか」
上手くそういうのが伝わらないような言葉を探したけれど、一旦考えてしまうと駄目だった。
ので諦めて、無難な解答に落ち着かせる。昨日体育で惨敗した記憶に引きずられてることは否めないが、これは本当に思っていることだった。
「ふゆは運動得意な人が好きなの?」
「ん、まあ、いいよねーと思うよ」
「そっかー。って、わたしはそんなにだと思うよ」
「そんなにって? 運動が?」
「うん」
桃は頷いて、手を後ろで組む。
私の返答を待っているのだろうと思って困りかけたけれど、それは杞憂だった。
声には出さず、桃は何かを呟く。その様子は頭の中でメモ帳を捲っているかのように映る。
「でも、でも……うーん。ふゆに言われると、嬉しい、気がする。うん、嬉しい」
そしてしばしの沈黙の後、桃が言ったのは自分を納得させるような言葉だった。
「そんな無理して喜ばなくても」
「ううん、無理なんかしてないよ。自分では思ってなかったことだったから、ちょっと」
「さっきの私と同じ?」
「そうなのかな?」
「多分ね」
あらためて思う。人を褒めるのは苦手だ。
それが桃相手ならなおさら。だって、こういう風に微妙なことを褒めたとしても、最終的には嬉しそうに受け取ってくれるだろうから。
「もうそろそろ帰ろっか」
「暗くなってきちゃったね」
そもそもの話、桃と接していて嫌なところなんてどこにもないのだから、取り立てて良いところを考えたことなんてなかったのだ。
桃は私にやさしくしてくれるし、いろいろと合わせてくれている。
だから私は考えずにいられるのだと思う。
そうすると、私は──。
「……」
扉へと続く道を歩きながら、はっとする。
やっぱりこういうのって会話が終わってから思いつくように出来ているのかもしれない。咄嗟の時に、身体はでたらめにでも動くとしても口はうまく動いてくれないのが私の悪いところだ。
「……あ、なんか思いついたような顔してる」
桃の表情を見て確かめようとした時にはもう、その思いつき、あるいは言葉にはできない心象の発露を見透かされていた。
「え、分かった?」
「なんとなく」
当てたことが嬉しいみたいだった。にこーっと歯を見せて桃は笑う。
「じゃあ、何考えてたか当ててみて」
「えと、それは無理だよ」
「だよね」
「うん」
無意識のうちに、違うことを言おうと決めていた。
理由はない。けれど、おそらくこれで間違ってはいない。
こうやって、なんでもないような話ができること。
それが私にとって、桃と一緒にいて一番にいいなと思えるところなのだ、と。
私の心の中に留めておく分には、そういう結論に至るのは至極単純なことだった。
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