*
*
教室の窓を開けて、新鮮な空気を取り込む。閉め切られていた空気は重く、ちょっとだけ苦い。
ここに来て、やることはやった。ので、自分の席に座って鞄から本を取り出す。
授業とはまた別のお勉強、というとなんかすごい真面目っぽいな。趣味の延長……にしても真面目っぽい。
今日の授業の予習は前の休みに済ませた。それほど量はないし、難しいものを出されたこともない。
簡単な問題を、時間をかけずに解く。答えがあるものはそれでいいから楽。
ぼーっと眺めて、目が滑ってきたところで本を閉じる。栞を挟むのを忘れたことに気が付いて、ページを読んでいた位置に戻す。
目が覚めていない。走って、ご飯を食べて、自転車を漕いでここまで来て、だから眠さとは違うけど、頭がまわらない。
こういう時に、家だったら嫌々寝室に戻るかリビングのソファにもたれかかったりして時間が過ぎるのを待つけれど、今はどうしようか。
予習を済ませてしまったのがここらで効いてくるとは。じゃあ次の予習をしよう、とはならない。そこまで真面目ではない。
「……眠い」
そう言えば眠くなったりしないかな、と思って、でもそうならないことは分かっていて。
教室には私以外の誰もいないが、ちょっとだけ周りを気にする。
私の次の子が来る時間まではまだまだある。騒いだって、なにをしたって自由な時間だ。
席を立って、教室内をふらふらうろつく。
目に付くものは多々あるけれど、目の前を見ていれば一番大きなものに目が向く。
黒板の落書きはいかにも女子高生が書きましたって感じで、黒板のその部分だけがきらめいているようだ。
教卓に手をかけ飛び乗り、座ってみる。昨日授業中にやってみたいと思ったことだった。
先生の目線ってこんな感じなのか。……ずっとやってると噎せそうだな、これ。
溜息のような咳が漏れる。教室全てに掃除が行き届いているわけではないから、埃っぽくても仕方がない。
足を揺すると、呼応するように上半身も一緒に揺れる。こうしてるとブランコみたいで楽しいかも。
「……」
不意に鼓膜を揺らす音に、びくりと体が硬くなる。
とん、とん、という軽快な音。この音がなんの音かは、まあ足音なんだけど。
「おはよー、冬見さん。今日も早いね」
「おはようございます、先生」
それほど耳が利くわけではないが、パンプスとスニーカーの音の違いくらいは分かる。
生徒のでなければ、必然的に先生のということになる。
「……で、なにしてるの?」
「えっと、暇だったので……あ、降ります降ります」
言いながらお尻をずらして、足から着地する。
スカートを払っていると、「降りなくてもいいのに」と変に申し訳なさそうな顔で言われた。
「でも、意外かも。冬見さんって落ち着いてるし」
「さっきまでも落ち着いて座ってましたよ」
「……教卓に?」
「教卓に」
あまりに真面目っぽく答えたせいか、先生はワンタイミング間を空けて、笑い始めた。
そういうタイミングとかが大分変わってる人だと思う。気が付くと一人でぷるぷる震えてたりする。
担任を二年連続でしてもらっているから分かるけど、この人も学校に来るのが早い。
でもこの時間に教室に来るのはなかなかない。というか、多分これが初めて。
「あー! 冬見さん、いつもお花ありがとうね」
私から目を外した先生が教室の後ろの方を向く。
そして駆け寄っていった先には、一本の花瓶。いつの日か家から持ってきた私物だ。
「いえいえ、勝手にやってるだけです」
「そう? 先生、冬見さんのお花をけっこう楽しみにしてるんだけどなぁ」
優しくておっとりしているところがある人だからというのもあるかもしれない。先生の、生徒からの人気はすさまじい。
廊下を歩けばみんなに挨拶されている。授業の質問と称して、個人的なあれそれを話されることもしばしばらしい。
距離感が近いようで遠いのはきっと意識してのことだろう、生徒と自分からはそこまで仲良くはしている感じはしない。
四月の初めの頃に、みなさんの自主性をうんたらかんたら、と言っていたことがあった。この通り、みんな綺麗さっぱり忘れていると思うけど。
「このお花は?」
「チョコレートコスモスです」
「コスモスかー……すっごくいい香りね、あ、チョコレートの香りなのね」
「はい」
聡明なところがある先生だけれど、花についてはあまり造詣が深くないらしい。
でも新しい花を飾るとその花の名をいつも聞いてくるあたり、ちょっとは好きなんだろうか。
「部活で育てたの?」
「まあ、そうです。自分で思ってたよりもたくさん咲いたので、持ってきました」
「ふうん……えっと、冬見さん、頑張ってるんだね」
「でも、そこそこですよ。一応、部長なので……」
私は一応部長。で、この先生が一応顧問……なわけだけど。
「そっか。今度ひさしぶりに部活してるときにお邪魔していいかな」
発言の通り、めったに(というかまったく)部活に来ない。定時になるとすぐに車で帰っていく。
朝早く来ているのは、今の時間に仕事をしているからだろう。見かけ通りに、仕事はかなり出来る人らしいし。
「不定期ですけど、ええと、かまいませんよ」
「うん。お花についていろいろ教えてくれると嬉しいかも」
私もそこまで知らないけど、と思ったけど、頷きを返した。
不定期というのは本当のことで、先生も自由なのだから私も自由にやらせてもらっている。
しかも部長といっても部員自体が私一人だし、やるもやらないも私次第なわけだ。
先生は、どうせ来ないし。あ、来てほしいとかそういうことではなくて、むしろ来ないでほしいかもしれない。いきなり来られたら多分けっこう困る。
「切り花って、もって一週間くらいかな」
「そうですね。毎日水を替えても、五日とか六日とかです」
「ふんふん、なるほどね」
先生が上着のポケットからスマートフォンを取り出すのが目に付いた。
私を気にせずに、すっすっと操作して、チョコレートコスモスに向ける。写真を撮るらしい。
ぱしゃりと音がしてから、いいよね? という目を向けられた。大丈夫です、と頷くと何枚かアングルを変えて撮り始めた。
「誰かに見せるんですか?」
何の気なしに質問すると、先生は目を丸くして視線を外した。
そして「あはは」と笑ってスマホを下に引っ込める。変な質問だったかな。
「わたしの母親と妹がお花とか大好きな人だから、冬見さんの育てた綺麗なお花を見てほしいなーって」
どうやら家族の話をするのが恥ずかしかったらしい。
胸元まで垂れたネックレスを落ち着かなそうに弄って、はぐらかすように苦笑する。
誰かに見せるため、か。
花なんて、実際のところ見てくれる人は少ない。興味がない人の視界には映らない。
だって、ここにいる人にとっては今この時が花だろうから。もしくは花よりも輝いているものを持っていると思っているから。
お互い話題らしい話題なんてないなか、少しだけ話をした。なんてことのない世間話。
チョコレートコスモスの色が先生の好きなワインの色みたいだとか。お酒を飲む人と初めて知った。
先生は花と絡めて何度か私を褒めてきた。釈然としない気持ちはあったが、特に嫌な気はしなかった。
育ちやすいような環境を整えただけで、私自身はなにもしてないのに。
本当は野ざらしの方が幸せだったかもと思うのも、どうせ枯れるなら教室に持って行こうと思ったのも、どっちつかずの私の都合だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます