【1】






 目の前に差し出された小指。

 私のよりも、幾分か細くてしなやかなそれを視界に捉えながら、ついさっき言われた言葉を思い浮かべる。


 えぇと、私の聞き間違いじゃないよなあなんて思ったけど、できればそうであってほしかったけれど、それはまずなさそうだった。なにせ相手は目の前に座っているのだから。

 どう考えたって間違えようがない。ない、ないのだが、いや待ってくれ。隣に座っている友達と斜め前に座っている友達もご飯を食べる手が止まってる。

 けれど、この場にうまく言い表しがたい空気をもたらした帳本人は、私を含めた三人の困惑なぞなんのそのでにこにこ笑って、こっちを見ている。


 ……うん、えっと、正直なにがなんだか分からない。


 想定外な出来事に対処するために必要なのは、多分、その状況を整理すること、なはず。とりあえず気持ちだけでも落ち着きたい。

 頭が真っ白になっているわけではないから、そこまで落ち着いてないってわけでもない。でもかといって冷静でもいられない、みたいな。首が勝手に傾く。


 晩秋、風流っぽい言い回しをするなら、雪待月やら小春日和の候とでもいったところか。

 日が完全に短くなってきていて、なんとなく憂鬱さと物寂しさが入り交じった季節。外で息をすれば白が空に溶け、肌を刺す寒さが襲ってくる。


 今日は久しぶりの秋晴れで、こんな天気なら中庭に行ってお昼ご飯を食べるのが習慣になっていたけど、最近はもう毎日のように学食のお世話になっている。

 テーブルの上には各々の食事と、すぐ近くの購買で買ったプリンが置いてある。


 そして目の前に座っているのは、私の友達の一人。


 桃、と私は名前をそのまま呼んでいる。他にはももちんやらもももやらあった気がするが、いつの間にかお蔵入りしたようだった。


 思い返してみると、私は今まで桃に対してあだ名のような呼び方を一度もしていない。初めて名前を聞いたときから、ずっと桃のままだ。


 持ったままでいた箸を置いて、目を戻してから、桃に訊ね返してみる。


「あのさ、桃、もっかい言って」


「……うん?」


「さっきはなんて?」


「さっき……あ、あー、これね」


 これねこれね、と桃は小指を立てたまま手をぷらぷらさせる。

 僅か数十秒前のことを忘れたわけではないだろうけど、桃に限ってはそうとも言い切れない。

 私がこのまま黙って待ってれば話し始めてくれる。……かな。結構ビミョーな感じがする。


「なんていうの、あまりものどうし付き合っちゃわない? っていう提案」


 桃がこういう時に続きを自分から話し始めるのは珍しい。

 それに言ってる内容まで珍しい。いやまあ珍しいって言葉は適切じゃないかも、この場合はなんて形容するべきか。

 少なくとも友達同士での日常会話で出てこないことはほぼ確実だと思う。


「あまりもの」


「そう、あまりもの」


「……具体的に言うと?」


「ふゆとわたし、だけど……あれ、伝わってない?」


「どうだろ、分かるような分からないような」


 桃は小指を引っ込めて、少し悩んだように腕を組む。様子からして冗談を言っているわけではないようだ。

 ふゆと、で私に指を向け、わたし、で自分に指を戻す。それは分かるから、と伝える間もなく、


「栞奈ちゃんは、前から彼氏さんがいるじゃん」


 と私の横に座っている栞奈に話が飛んだ。


 栞奈は、多分私たち四人のなかで一番まともな女子高生。成績優秀で部活も真面目。文武両道を体現している優等生。

 それでいて真面目すぎるようなきらいはなく、メリハリが出来ているタイプで、何気ない所作に頭の良さを感じる。

 実際、制服もそれなりに着崩していて、スカートの丈も四人の中では一番短かったりする。


 そんな栞奈の「そうね」という返事で、ああそういえば彼氏がいるとかなんとか言ってたような気がしなくもないな、と遅れて思い出した。

 いつか写真を見せてもらったことがあった。印象は……特に覚えていないけど、仲は良さそうだった。付き合ってるなら当たり前か。

 自らそういう話をしたがるタイプではないからすっかり忘れていた。同じ学校ならともかく、栞奈のお相手さんは他校だし。


「つーちゃんも……あっ、つーちゃん改めましておめでとう」


「お、おー。ありがとう」


 こっちはこっちで、戸惑った様子を少しも隠すことなく、私を見ながら返事をする。

 それもちらちらとではなく、じっと。特徴的な大きな瞳で、じぃーっと、見つめてくる。


 つかさのこういうところは、控えめな反応を向けてきている栞奈とは対称的に思える。

 感情の発露がストレートで、表情にも態度にも出やすい。細い身体と俊敏な動きも相まって、どこにいても目に付く。

 座っていると分かりづらいが、手足がそこそこ長い。身長はこの中で一番低いけど、クラスでは真ん中くらい。高校に入学してから一年のうちに何センチか伸びたらしい。


 あと、少し前に恋人が出来たらしい。

 テーブルの上のプリンは三つともつかさのものだ。細やかなお祝いとして三人から一つずつ渡した。


「伝わった?」


「まあ……」


 栞奈とつかさに恋人がいる。桃と私はあまりもの。『付き合っちゃわない?』という言葉。

 そこから照らしてみると、簡単に答えに行き着く。


「どうかな?」


「いや、どうって言われても」


「楽しいと思うよ?」


 なんだか押しが強い。必死さとは違うけど、迂闊に流せもしないような。


「楽しい例をあげよ、楽しい例を」


 何をどう返事すればいいのか分からないから、とりあえずおどけて見せる。

 言葉を選んでる暇もない。私と桃より、栞奈とつかさの居心地を優先する。


「えと、土日に遊んだり、夜に電話したり、学校から一緒に帰ったり……」


 指折り、桃はあれこれと数える。

 どれもしたことがあるようなものばかり、でも、言っている桃は少しだけ楽しそうに相好を崩している。

 まるで、その場面を想像しているように。……私もしてみたけど、そんなにっていうか、現実的な範囲を出ない感じで、普通? だった。


「どれも付き合わなくてもできるじゃん」


「そうでもないよ」


「んー……そうかな」


「だって付き合ってたらもっと楽しい気がするし」


 なんて言いながら、「ね?」と桃はつかさの顔をちらりと見る。

 一瞬きょとんとして、何を思ったか「そうだぞー」とうんうん頷きを返すつかさ。めっちゃ流されて言ってる感が半端ない。


「ちょっとちょっと、ふつーに困ってるよ」


 ふわふわしたやり取りを見かねて、先ほどから静観していた栞奈が助け船を出してくれる。

 が、その先を続けるつもりはないらしい。デリケートというか、単に口を挟むのが面倒な話題だからだろう。


「あーそのー、大丈夫大丈夫。ちょっと驚いたのと、少し考えてるだけ」


 言うと、思った通りに栞奈は「そっか、悪いね口挟んで」とあっさり引き下がった。


 そして何事もなかったかのように食事に手を付け始める。

 関わるには関わったからあとは二人で話せ、ということだろう、多分。


「ちょっと気になったんだけど」


「うん」


「桃は私と付き合ったらなにをしてくれるの?」


 最初に聞くべきことはもっとあるはずだけど、単純に思ったことを口にしてみる。

 つかさの目はまだこちらを向いているけど、この際気付いていない振りをしよう。


「さっき言ったみたいなことだよ?」


「遊んだり?」


「うん、うんうん」


 またしても、ほわあ、と効果音が出ていそうなくらいに桃の顔がほころぶ。

 そういうことじゃなくて、と言いたいのはやまやま。困った顔でもしてみればいいのか。


「もうちょっと練ったらまた聞かせて」


 掘り下げようともして、結局そうはしなかった。なんだかもっとふわっとしたのが飛んできそうだと思ったから。

 それにせっかくのランチを残してしまってはもったいない。柱の掛け時計を確認すると、もうあまり休み時間が残っていなかった。


 もそもそ食べていると、予鈴とともに「次の時間は体育らしいよ」と食べ終わった二人が食器を片付けて行ってしまう。

 らしいよってなに。すっかり忘れてたけど。

 残される桃と私。食べるペースはどちらも遅め。体操着に着替えなきゃいけないし、このままでは遅刻必至だ。


「次の体育って、種目分かる?」


「マラソン」


「うわ」


「ふゆ、うそだよ。先週の続きで、自由時間だと思う」


 うだうだ話しながら、どっちもペースを速めようとはしない。

 もう遅刻確定だろうと思っているところに「一口食べる?」と今度は指ではなくスプーンが私に向く。

 マイペースというか、なんというか、こういうところはとても気が合うところだと思う。


「なら隅っこで暇つぶししてよう」


「……んー、わたしは少しだけ動こうかなって思ってた」


「そう、がんばって」


 ひらひらと手を振ってみると、桃は自分の前髪をさらりと撫でるように梳いて、そのまま耳に掛けた。

 そして、すぐに笑う。眼鏡を掛けているわけでもないのに、くいっと眼鏡を上げるようにこめかみの辺りに触れながら。


「今日はバドしよっか」


 どうやら、提案すれば私は断らないだろうと確信を持っているみたいだ。

 桃は最近になって、こういうふうに私の振る舞いを読んでくることが多くなった。


「いいね」


 まあたしかに、断りはしないから間違いではない。

 

「ふゆはバド得意?」


「どうかな。あんまりやったことない」


 先週の体育は四人でテニスをした。

 クラスの人たちは体育館でぬくぬくドッジボールとかバレーをやっていたけど、つかさと桃の思いつきでそうなった。


「そうなんだ……あ、うん、そっか」


 半笑いで桃が頷く。


「……いまなんか失礼なこと考えたでしょ」


「いやいや、全然」と桃は両手を振って否定したけれど、表情までは誤魔化しきれていなかった。


 シングルマッチ総当たり戦。

 ばりばり現役運動部の栞奈は仕方ないにしても、帰宅部のつかさと桃にも惨敗した。

 私が打つとテニスボールがあちらこちらに飛んでいく。明後日の方向って上手い喩えだな、と思うくらい。


「食べ終わったし、そろそろ行こっか。……あ、わたし片付けてくるね」


「お、ありがとー、やさしー」


 学食のおばちゃんとにこにこ会話してから戻ってきた桃と連れ立って廊下を歩く。

 他の生徒の姿はない。ちょっと急いだ方がいいのだろうか。桃の横顔を盗み見て、まあいいか、となった。


 ふと思ったけれど、さっきのアレもそういうことだったりするのかな。桃からだけってわけではないけれど、私は人に何かを提案されれば、まず断らない。

 自分でその何かを決めるのが面倒だから。ちょっと押されれば、割とあっけなく傾く。そういう自覚はある。

 それに頼まれることの希少さが拍車をかけている。私に頼み事をしてくる人なんてそうそういないのだ。


 だとすると……。

 いや、だとしても、とりあえずの感想はさして大きくは変わらない。


 もし仮にそういう関係になるとしたら、こういうふうにふわふわしているのはあまりよろしくない。


「んー……」


 そんなことを思ったがすぐに、ちょっと違うかも、と歩きながら頭を振る。

 階段に差し掛かったところで足を止めると、桃も同じように足を止め振り返った。


「どうしたの?」


 至近距離から私を見つめる、透き通った瞳。

 私より背が少し高いから、必然的に見下ろされる形になる。


 一年と半年前、桃と初めて出会ったときに抱いた印象は、"綺麗な子"だった。

 どこが綺麗かっていうと、全体的に。サラサラの黒髪とか、すらっと伸びた脚とか、姿勢の良さとか。

 顔も……なんか、勝手に評価するのも悪いけど、品のある? 美人系? だと思う。


 けれどなんとなくゆるい。ふわふわしている。普段の表情、雰囲気、ちょっとした仕草が。

 吹けばどこかへ飛んでいってしまいそうで、見ていて少し不安になる。


 そうか、と気付く。簡単なことだ。

 桃自身がふわふわしているのだから、ふわふわしているのはある程度のところまでは致し方ないのかもしれない。


 正しくは、ふわふわしすぎているのはよろしくない、だろうか。


「……あ、これもちが」


 う気がする、と言いかけて、それも違うのではと心の中で指摘する。

 ちが? とこちらを窺う目に、いや、と即座に返す。


「……あーあのね、桃って歩きかたが綺麗だよね、って」


「え? え、え、っと……」


「それだけ。ごめんね急に立ち止まって」


「……ううん。ちょっとおどろいた、えと、よろこんでいいやつ? だよね?」


 桃の言う、楽しい楽しくない以前に。

 私の思う、ふわふわしているしていない以前に。


 真面目な提案をしているのであれば断りはしない、というのがどうなんだろう。

 ……なんて。


「うん、よろこんでいいやつ」


 直感的に判断してみると、そこまで怖くはないだろうと思えてしまう自分が少なからず意外に思えた。



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