第22話
馬が嫌い。-22
正月休みは、乗馬クラブで過ごしている。朝靄の中、冬用の厚手の馬着(ばちゃく)という服を着た馬達が元気に駆け回る姿は、新年に相応しく太陽の中で輝いている。
「手伝いに来てくれて、本当に助かるよ。これからゴボに会いに行かない?」
サンドイッチやスコーンと格闘し終わった頃、アフロさんに声をかけられる。嬉しいな。
「はい。お願いします」
「事務所で待っていて。夜の飼葉の準備をしたら行くよ」
赤くなった指先に息を吹きかけながら事務所に行くと、暖房の前にクッキーが寝そべっていた。近づいて跪いて手を差し出すと、ボスっと顎を乗せてくる。
「クッキー。僕はさ、あんなに距離を置いていた馬に対して、愛着が湧いているんだよ。こんな自分にまだ慣れなくて、不思議な感覚だよ」
フンと鼻息を出すクッキー。良かったなと返事をしてくれているようだ。
「クッキーはカッコいいな。あったかいなぁ」
背中を撫でると、フワフワとした毛が気持ち良い。動物って触れると心も気持ち良くなる。少し前まで知らなかった。
フリフリと振る尻尾は、撫でるとスルリと毛が流れる。面白い。心地良い。
「フワフワたっぷりクリームは〜夢の中なら雲になる〜」
僕は僕の声を聞く事が無くなった。一過性のものだったんだろうけど、あのまま自分の声を聞き続けていたら、僕はここにいなかった。
「お月様にちょこんと乗せて、キラキラお星様をパラパラと〜」
僕は無知だった。一歩違う世界に出れば、僕を見つめてくれている人が沢山いる事を。
僕は無知だった。馬の生きる環境を知らずに一方的に嫌悪していた事を。
「くるっとまいたら、クルクルクレープの出来上が〜り」
好きな歌を歌い、アフロさんが来るまでクッキーと寄り添い、暖房の前で温まった。
ーーー
競馬場の厩舎の正月は静かで賑やかだ。変わらない日常。いつもと違う所といえば、ゲートに正月飾りが飾られている所かな。
「ゴボ。あけましておめでとう」
洗い場で待っていると、アフロさんがゴボと共に来た。これから手入れをするそうで、僕はその様子を側で見学する。
ガリガリと信陽さん特製裏掘りで蹄の裏を綺麗にして、数種類のブラシで毛を整えていく。
風に乗って、フワフワとゴボの毛が僕の足元に転がってきた。手に取り指で丸めると、小さなゴボになる。
「アフロさんは、なんで厩務員になろうと思ったんですか?」
ゴボは耳の中をブラッシングされると喜ぶんだな。変な口をして『あ〜、そこそこ』って言っているようだ。
「小さい時に祖父に連れられて競馬場に来たんだけど、猛スピードで駆け抜ける馬を乗りこなす騎手に感動してね。あの時の迫力は未だ記憶に残っているよ。騎手になりたかったんだ。でも、体格的に無理でさ。
有馬オーナーから調教厩務員に向いているって勧められるがまま、こうしてここにいるんだよ」
たてがみの付け根をブラシで擦られて、ゴボが変な顔をする。余程気持ち良いのだろう。
「経済動物を扱うって、その…。辛い時もありますよね」
「そうだね。勝負の世界だから」
尻尾を手入れするアフロさん。馬の後ろに立つなんて僕は怖くてできない。信頼関係があるのと、アフロさんが馬をよく見ているからできる。
「新人の頃の話なんだけど。こうして洗い場で馬の手入れをしている時に、蜂が馬の目の前に飛んで来たんだ。
驚いた馬が立ち上がって暴れてね。宥めようとして馬の首元に手を置いたら、バランスを崩した馬と壁に挟まれてさ。気絶したんだ。
このロープを繋ぐナスカン、馬が少し力を入れたら直ぐに取れちゃうんだ。つまり、馬はこの場に繋がれるのが嫌じゃないからここにいる。安心できる場だから。
馬の扱いに慣れていると油断していたからこそ、そういった事故になった。馬に大事は無かったけど、私は先輩から叱られたよ。相手は大きな動物である事を常に意識して相手しろと」
「死んでいたかもしれなかったのに、アフロさんが叱られるんですね」
「私の責任さ。その時馬に何かがあれば、私の行動一つで馬生に影響する。それを常に意識して、仕事をしているんだよ」
綺麗になったゴボ。撫でて良いと言うのでアフロさんの側に立ち、声をかけて手を触れる。
温かいな。冬毛で少しモコッとした、厚手の絨毯のような触り心地だ。ピカピカと光るゴボ。僕のきっかけの馬。
「馴致(じゅんち)といって、馬を調教する事を言うんだけど。繊細な馬であればある程、優秀な成績を残すと言われている。指示を敏感に受け取り易いから」
繊細って言うけど、ようは気難しい性格の事なんだろう。有馬オーナーが乗るニルギリを思い出す。
前にニルギリの馬房前で盛大にクシャミをしたら、馬房から顔を突き出してきてキレてきたんだ。鋭い眼光、伏せた耳、噛み付かんばかりの大きな歯列。怖かった。生理現象なんだから仕方ないだろ。
「まだ公表されていないから、内緒なんだけど。ゴボは誘導馬を引退するんだ」
「えっ…ゴボ、どうなるんですか?」
「ゴボは紅茶乗馬クラブに来るんだ。私が調教を任されているんだよ。
中級者を相手できるように再調教していてね、この子はよく頑張ってくれている。
プロにしか乗られていなかった馬が、会員さんを乗せるのって大変なんだ。考えてごらん。乗り方の練習をしている人達なんだ。あやふやな指示をされ、違うと鞭で叩かれ、不安定に乗られ。ストレスだろ?
馬って人を乗せるのが好きじゃない子もいるんだよ。そんな子が不安定な乗り方で沢山の指示を受けたら。嫌になって不信感を積もらせる子も出たりする。」
「ああ…そうですよね。考えた事もなかったです」
アフロさんを見ていたゴボが、チラリと僕を見てくる。まん丸な黒い目。キラキラとした目。悪意や敵意は感じ無い。馬達が幸せに長く暮らしていくには何が必要なのかな。僕には想像できない。
「さて、そろそろゴボは戻すよ。浦良君、装蹄所に行きなよ。信陽君が待ってる」
「正月なのに、装蹄師さんも仕事があるんですか?」
「装蹄師さんは正月は休みさ。信陽君は腕を上げる為に日々練習しているんだよ。カッコイイよね。
そのまま家まで送ってくれるって言ってたから。では、また明日お手伝いお願いします。お疲れ様でした」
「はい。お疲れ様でした」
アフロさんとゴボに挨拶をして、信陽さんの所に向かう。作業所の入り口から中を覗くと、信陽さんが蹄鉄を叩いていた。手招きされたので、近寄る。
「お邪魔しましたか?すみません」
「今から飾り蹄鉄を作る。見るか?」
「はい!お願いします」
飾り蹄鉄ってなんだろ?信陽さんが鉄の棒を火鉗(ひばし)という道具でつまみ、高温に燃え盛る炉に入れる。暫くして取り出すと、真ん中部分だけ真っ赤になっていた。
カンカン、カンカンカン、カンカンカン
火鉗で鉄の棒を縦に掴み、ハンマーを使い金床で叩く。何度か繰り返すと綺麗にUの字に曲がった。
ザクッ、ザクッ、ザクッ
コークスの音が炎の音と混ざり、耳に心地良い。
ガリガリガリッ
ワイヤーブラシを使い、蹄鉄の表面の被膜を綺麗にする。飛ぶ火の粉が熱そうだ。
カンカンカン、カンカン
何度も何度も熱し、叩いて伸ばす。何度も何度も。室内に響く音が心に響く。叩いて伸ばし、強くなる。
「形ができたから、溝を作って釘穴を作る」
ミノみたいな道具を蹄鉄に合わせてハンマーで叩くと溝が出来た。そこにキリのような道具を合わせ、ハンマーで叩けば穴が空く。こうやって蹄鉄は作られるんだな。
続いて、蹄鉄の両端に信陽さんが細かく道具を合わせてハンマーで叩いていく。それは次第に馬の顔になっていった。
「…完成だ」
ジュッと水の入ったバケツに蹄鉄を入れる。冷えた所で取り出して見せてくれた。馬が両端に彫られていて、なんとも可愛い。
「うわぁ…可愛い。これが飾り蹄鉄なんですね」
「幸運や、安全運転守りだな。俺からのプレゼントだ」
「えっ!いいんですか?」
「浦良君のお菓子が店頭販売される事が決定されたからな。お祝いだ」
フルーツバーをプティフールとして提供した所反響が大きく、年明けから販売される事が決定した。手土産に丁度良いとこの事だった。お店のみんなで作った物なのに、僕が作ったと紹介されたんだ。
本当に嬉しかったけど、葛藤が無いわけじゃない。また何か作りたいなって意欲が湧いた。今度はもっと自分の手で。
「ありがとうございます。貰ってばかりで…大切に飾らせてもらいますね」
「ああ」
信陽さんが帰り支度をするのを待って、車に乗せてもらい帰る。かと思ったけど、方向が違う。
「あの、どこに行くんですか?」
「昼飯を食べに行く」
そう言って着いたのは、立派な一軒家。隠れ家レストランみたいなものかな?庭が見え、色々な木が植えられている。タイムやローズマリー、月桂樹。料理で使うハーブの木。花壇も大きい。あ、長ネギとか金時草とか色々植えられている。花壇というか、野菜壇だな。
車を停めてインターフォンを鳴らすと、可愛い声がする。
「のぶ君!ウラ君!お母さんお父さ〜ん!来たよ!」
「え?ここって、まさか」
「いらっしゃ〜い!!入って入って!!」
梨瀬シェフの子供3人が玄関の扉を開けて出迎えてくれた。ワチャワチャと周りに纏わりつかれ、そのまま背中を押されて家に連れ込まれる。こんなの初めてだから戸惑っていると
「いらっしゃい。あけましておめでとうございます」
玄関で笑顔の梨瀬シェフとキームンさんが待っていてくれた。ああ。琢磨の実家と同じで、その顔にホッとする。温かい家庭だ。
「あけましておめでとうございます!あの、僕は知らなくて。その、酒買ってきます!」
「いいんだよ。サプライズだ。さあ、入った入った。信陽君、今年も宜しくね」
「…ああ」
入ってと子供達に引っ張られて室内に連れ込まれる。信陽さんは、何だろう。苛ついている。どうしたのかな?
「リゼ。俺はこんなに賑やかな正月が迎えられて幸せだよ。これも貴女と結婚できたからだ。心から愛しているよ」
「キームンったら!お客様がいるでしょ!」
「そうだな。…じゃあ、今夜もな」
そう言ってキームンさんが梨瀬シェフの腰に手を回して口付けした。昼間から凄い刺激に僕は顔が赤くなるのを感じる。周りを見れば、子供達はいつもの光景だという顔。そして………信陽さんは青筋を立てている。
「キザ野郎が」
「お褒めの言葉、ありがとう。信陽君はいい加減姉離れしたらどうかな?」
子供達は、これもいつもの光景だという態度だ。なる程。梨瀬シェフが絡むと信陽さんも表情が変わるんだな。キームンさんは勝ち誇った顔をしている。
「さあ!浦良さん、ご飯食べましょう。お腹いっぱいにさせてあげるからね。覚悟しなさい!」
顔を赤くさせた梨瀬シェフが僕に明るく声を掛けてくる。いつもと違う雰囲気に、恋する乙女って感じがして面白い。愛する人に愛されている、綺麗な笑顔だ。
「ありがとうございます。お手伝いさせてくだ…うわっ!」
「ウラ君はお客様だからこっち!私の隣!」
「お母さん!ミューズリージュースどこ?」
「お母さん!これ持って行けば良い?」
ああ、こんな正月は産まれて初めてだ。なんて温かいんだ。
コップに飲み物を注がれ、箸はあるかスプーンはあるか。賑やかに互いに声を掛け合い準備する様子を眺める。これが、小さな子供のいる温かい家庭なんだな。覚えておこう。
「では、みなさん。準備ができたので!」
「せーの!!」
「いただきますっ!!」
全部が美味しくて、気が付いたら胸が温かくて。僕は久しぶりに満たされた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます