第12話

馬が嫌い。-12


製菓衛生師試験を受けてから1ヶ月。今日、家に封書が届いた。ああ、見なくてもこの大きさでわかる。


「や、やった……」


震える手で中身を取り出す。そこにはしっかりと僕が合格したと書いてあった。これで免許の申請に行けば、僕はプロのパティシェ。


「やった、やったよ。やった……ううっ」


ボタボタと自然に涙が溢れる。棚に飾ってある人形に書類を見せて、いつも見守ってくれてありがとうと感謝した。アクアマリンの綺麗な瞳はおめでとうって言ってくれているみたいで、嬉しい。


携帯を取り出して、授業中であろう琢磨にメッセージを送る。


「合格したよ、と、合格通知の写真を添付しておくか」


次は梨瀬さん。何て書こう。現場を離れて2ヶ月以上経つ。腕が鈍らないようにはしていたけど、実戦で直ぐに役に立てるかな。いや、後ろ向きに考えちゃ駄目だ。待っていると言ってくれたんだ。


「お久しぶりです。製菓衛生師の試験に受かりました。梨瀬さんの所で働きたいです……何だろ。もっとこう、薄っぺらい内容過ぎて……うわっ!?」


目上の人に何て文章を書けば良いか検索していたら、電話が鳴った。琢磨からだ。お祝いの言葉でもくれるのかな?


「もしもし」


『合格おめでとうウララちゃん!こんな短期間に2回もお祝いを言えるなんてな。色々めでたい!』


「琢磨が色々としてくれたからだよ。本当にありがとう」


『そんでさ、ま、ちょ、ちょっとまっ……もしもし梨瀬です。浦良君、合格おめでとうございます』


まさかの梨瀬さん!何で平日のこんな真っ昼間に琢磨と一緒にいるんだ?

もしかして、琢磨の大学で講義をしている最中なのかもしれない。入院している時に聞いたんだ。カリソン代表として色々な学校をまわって、飲食業界について講義をしてるって。

僕はとてもタイミング悪く連絡したのかもしれない。


「お、お久しぶりです。ありがとうございます。お仕事中なのにすみませんっ!」


『そんなに固くならなくて大丈夫よ。これから時間ある?乗馬クラブの入り口を入って直ぐのログハウスに来て欲しいのだけど』


予想は外れた。琢磨は今日アルバイトで、僕の知らせを受けて梨瀬さんの所に行ってくれたんだってさ。後でお礼を言おう。

この一々大事に考えてしまう癖を直したい。取り越し苦労が多すぎる。


「わかりました!直ぐに向かいます!」


電話を切り合格通知をしまって、急いで家を出る。少し肌寒くなってきたこの時期は、運動するのに最適だ。

毎日通っているから、自分の体の使い方はわかっている。刈り取られた稲の良い香りを感じながら一定の速度で走り、少し走るペースを落とし息を整えると15分程で『紅茶乗馬クラブ』の看板前に到着した。


「いつもと同じタイムで着いた。よし。……あれ?看板がかかってる」


特に意識しないで通っていたから、ログハウスに看板がかけられている事に気が付かなかった。艶消しをしてある銀色のプレートには『カリソン』と書かれてある。新規でカフェをオープンすると言っていたけど、ここなのかな?


「浦良君。入っておいでよ」


ログハウスの扉が開いて梨瀬さんが顔を出す。あの時見た笑顔だ。ホッとする。


「お久しぶりです。ここでカフェをオープンするんですか?」


「お久しぶり。そうよ。3週間後にオープンなの。もう準備は終わっていてね、これからスタッフ研修と仕込みをしていくわ。浦良君は製菓衛生師の免許手続きを終えてから契約に来て。資格手当出るからさ」


中に案内してもらうと、スタッフの人達が僕に挨拶してくれた。僕も挨拶をする。まだ店は始まっていないからか、穏やかな雰囲気だ。

落ち着いた雰囲気の内装で、所々に置かれた飾りはドライフラワー、蹄鉄、馬の置物、革小物。馬が好きな人が好んでくる場所にしたいのかな?

梨瀬さんも馬が嫌いって聞いているけど、実は好きなのかな?


「事務所はこっちよ。来て。あ、黒板の真ん中に今日のおすすめを書くから、右にドリンクメニューを書いて下さい」


テキパキと指示をしつつ、事務所に案内してくれる。椅子に座るよう言われ、読んでと渡されたのは契約書だ。


「貴方の実力を加味してこの給料で働いてもらいたいのだけど、どうかしら?」


椅子に座り僕に笑う梨瀬さんは、女神に見えた。


「こ、こ、こ、こんなにっ…。休みも保険も家賃補助までっ…こ、高待遇過ぎませんか?」


「浦良君、これは至って普通の内容よ。工場部門より待遇は劣るわ。この契約書を読んで、何か希望があれば言って頂戴ね」


「と、とんでもないです。良すぎて、僕、即戦力になれるか不安で。どうしようかと。あの、この年末年始の休みの時は、どなたの家から家事をしに行けば良いんでしょうか?」


僕の質問に、梨瀬さんが目を点にしている。何かおかしな事を言ったのかな?

高校時代から、年末年始は店長とS先輩の家に掃除と料理と買い出しをしに行っていた。目上の人をもてなすのが下っ端の仕事だった。


「あ〜、えっと…。流石にここまで来ると、言葉に詰まってしまったわ。ごめんなさいね。理解が追いつかないと人は笑ってしまうと言うけど、今の私はすっごい腹が立ってきたわ。勿論、浦良君に対してではないからね。


休みは貴方の為に使いなさい。自分を犠牲にする事はここの職場では絶対にさせないし、する必要は無い。やむを終えず休日出勤や残業をして貰う時は手当はしっかり出します。ここにその際の賃金計算は書いてあるわ。わかりましたか?」


「わ、わかりました」


「私の仕事は、貴方や他のスタッフに良い環境で長く働いてもらう場を作る事。だから、体調が悪いとかあれば休んでも差し支えないよう現場を作る。

これから貴方のスキルが上がるよう指導していくので、一緒に良い店を作っていってくれますか?」


真剣な表情の梨瀬さん。作業をしていたスタッフの人達の顔が浮かぶ。彼女だからとついてきた人達の筈だ。僕も、その1人になりたい。もっと貪欲に自分の実力を磨きたい。


僕は立ち上がり、梨瀬さんに頭を下げる。これは敬意としてだ。服従じゃない。


「ありがとうございます。宜しくお願いします」


梨瀬さんが立ち上がり、僕に右手を差し出してきた。


「宜しくお願いします。浦良さん」


「は、はいっ!」


僕はこの瞬間を忘れない。僕は人として対等に、上司に言葉を掛けて貰ったんだ。

初出勤は1週間後からで、それまでに書類を書いたり服のサイズを測ったり。色々やる事が出来ると嬉しい。


「あの。ここでボランティアするよう言ってきたのは、この雰囲気に慣れる為ですか?」


「そう。有馬オーナーの意向で、ログハウスから馬が眺められるようにするの。来て」


事務所からテラスに行くと、結構な大きさの囲いが作られていた。太い木枠だから馬用なのかな?


「人を乗せる事も出来なくなった馬達に、ここでのんびりとしてもらうの。引退馬を愛でるというコンセプトで、許可無く撫でるのは禁止。皮膚が弱くなっていたり関節が悪くて、触れられるだけで苦痛を伴う馬もいるからね。

人が好きで触られるのが大丈夫な馬には、時間を決めてふれあいの場を設けるつもりだってさ。


馬に興味の無い人なら、来る理由も無いでしょ?だから美味しい料理を提供して、少しでも馬を知って貰えるきっかけを作れたら良いなって所よ」


「なる程。あの、ボランティアの事なんですけど、朝に手伝ってから来て良いですか?」


「それだと仕事に影響出るでしょ。貴方が抜けても影響無いようにスタッフの人員を配置しているから、大丈夫よ。

馬に慣れて貰いたくて行くように言ったのだから、もう辞めて良いのよ」


辞めて良い。その言葉に、僕は胸をギュッと締め付けられた気分になった。

僕は馬が嫌いだ。そうだ。あんなにも憎くて、吐き気がする程憎悪して。もう、ボロ掃除をしなくて良いんだ。喜ぶ所なのに、それなのに…。


『あんなに汚い馬に関わらなくて良いんだ。喜べよ』


そう僕に話してくる自分。でも。何だ、この気持ち。綺麗に輝く馬が、僕の心に居るんだ。


「……休憩時間に顔を見に行くとか、休みの日に手伝いに行けば良いんじゃないかな」


「え…?」


「さて、と…。私は仕事の続きがあるので失礼します。免許の申請行ってらっしゃい」


梨瀬さんが、僕に一瞬悲しい顔を向けた。でも、それは直ぐに優しい微笑みに変わる。この人は何で馬が嫌いなんだろう。


「はい。失礼します」


知る必要の無い事ではあるけど、いつか梨瀬さんの口から聞けたら良いな。

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