第8話

馬が嫌い。-8


早朝、僕はソワソワしている。

どうにか落ち着こうと棚に飾っている人形に向かう。声に出した方が覚えやすいんだと自分に言い訳しながら、製菓衛生師試験の過去問を喋る。


試験が終わってからどうかと提案されたけど、じっとしてるのにも飽きてきたので、今日から乗馬クラブでお手伝いをする事にした。


どんな作業をするんだろう。動物の世話なんてした事が無いから皆目見当がつかない。不安しかないけれど、新しい事に挑戦できるドキドキもある。


「…っよし!行ってきます!」


苦手な項目を何度か繰り返していたら、そろそろ出る時間だ。準備をして家を出て、少し早歩きで向かう。まだ朝日の昇らないこの時間。人は歩いてなくて、僕がこの世界を支配している気分だ。


「え〜と、ここから入るんだよな。こんな造りになっているのか」


『紅茶乗馬クラブ』と掲げられた看板。文字の横に馬の横顔が曲線で描かれていて、とてもお洒落だ。

中に足を踏み入れてみると、大きなログハウスが目に止まる。側のベンチも丸太だ。全部が相まってお洒落な光景だ。乗馬クラブって、想像通り貴族みたいな紳士淑女の遊びなんだな。


約束の時間まで少し余裕がある。テラスに置いてあるテーブルと椅子に彫られた葡萄を遠目に観察していると、背後でパタパタと歩く音がした。振り向くとフサフサ毛の犬が僕の側に来て近くで止まる。


「あ、おはようございます」


返答は無いけど挨拶をする。犬の尻尾は立っていて、僕をじっと見ている。どう思われているんだろう。


「君、どうしたね?」


犬と見つめ合っていると、少し遠くから声をかけられる。作業服姿の老人が近寄って来た。不審者だと思われているに違いない。ここは、初めが肝心だ。元気よくハッキリと話そう!


「おはようございましゅっ!」


出だしでつまづいた。もう、挽回は出来ないだろう。


犬が尻尾を千切れんばかりに振りながら老人のもとに走る。これは、僕が見てもわかる。この人が好きなんだな。


「おはよう。君は、今日からお世話をしてくれる子かな?」


「は、はい!そうです。宜しくお願いします!精一杯頑張ります!」


頭を下げて挨拶すると、愉快そうな老人の声が頭に降ってくる。


「うんうん、威勢は良し。ただね、馬達が驚くからもう少し声のトーンを落とそうか。そう気張らずに、のんびり速く仕事をしてくれたら良い。長く働いてもらう予定だからね」


恥ずかしくて汗が噴き出す僕は、その人の言葉がきちんと頭に入ってなかった。兎に角失礼の無いように落ち着いて話す。


「僕は何をすれば良いですか?」


「アフロ君があそこの建物にいるから、聞くと良い。僕は次の現場があるから失礼するよ。クッキー、案内してあげなさい」


犬はクッキーという名前なのか。ヒラヒラと手を振りながら老人は去って行く。しまった、名前を聞いていなかった。次に会う機会があれば謝罪しよう。


老人が去るとクッキーは徐に走り出す。案内って言ってたけれど、人の言葉がわかるわけでもないし……でも、犬が逃げたとか騒ぎになったら大変だ。慌てて後を追いかける。


クッキーの向かった倉庫に行くと、中でアフロさんが作業をしていた。


「クッキー、蹄はもう無いんだ……おや、浦良君。おはようございます」


「お、おはようございます。宜しくお願いします」


大きな声で挨拶しそうになったけど、トーンを落とした。失敗は繰り返さないようにしないと。


「お手伝いに来てくれて、本当にありがとう。気を遣ってくれて助かるよ。ゆっくりで大丈夫だから、動物達に慣れていって下さい」


そう言えば、何でアフロさんは此処にいるんだろう。競馬場で働いているんじゃなかったのかな?


「あの、アフロさん。此処でも仕事をしているんですか?」


「誘導馬のお世話をしつつ、この乗馬クラブで調教もしているんだ。2つは提携していてね、誘導馬だった子もここにいるんだよ」


テキパキと一輪車に大きな袋を置きつつ話してくれる。この匂い、お菓子か?


「甘い匂いがします。蜂蜜ですか?」


「流石、浦良君。馬は甘いものが大好きで、これは穀物に蜂蜜を絡めた物なんだ。

乗用馬は人を乗せて運動をするからカロリーを消費する。だから乾草の他にこう言った濃厚飼料も与えるんだ。これは、競走馬と同じ物なんだよ。これも提携しているからこそ安く仕入れられる。

さて、馬のご飯の事を『飼い葉(かいば)』と呼ぶんだ。この入れ物は飼い葉桶ね。厩舎の入り口まで運ぶのを手伝ってくれるかい?クッキーもおいで」


「はい」


渡された飼い葉桶を持ってクッキーと共について行こうとしたら、どこかへ走って行ってしまった。気まぐれだな。繋いでなくて大丈夫かなぁ。


「あっはは。浦良君はクッキーに気に入られたんだね。あんなにはしゃいでいるのは久しぶりに見たよ」


「そうなんでしょうか」


馬達は知らない人が入ってきたら怖がるからと説明を受けながら、厩舎の入り口の少し広いスペースでお座りしているクッキー目指して歩く。言われた所に飼い葉桶を置いて中を観察する。

大きな厩舎だ。前に見た誘導馬の厩舎の3倍はある。馬が沢山個室に入っているのが入り口からみえる。掃除している人達に声はかけず、丁寧に会釈をした。この人数でこれだけの馬の世話をしているんだな。むっとしていて、濃厚な動物の気配がする。


アフロさんが持っていた飼い葉桶を置いて、手前の檻に下がっているバインダーを手に取る。馬の食事を個別に管理しているそうで、色々書き込みをしている様子を見つつ周りを見回す。ここも馬の匂いがするけど、何故か競馬場程の不快感は無い。雰囲気が違うからだろう。


「馬達のいる個室の事を『馬房(ばぼう)』と言ってね。寝たり安心してくつろげる場所なんだよ。馬は草食動物だから、肉食動物に襲われる危険がある。ここにいれば襲われないとわかっているんだ」


アフロさんが荷物置き場から空の一輪車と箒と大きなちりとり等色々積んだものを指さす。


「早朝クラスの馬達は全員馬場に出ているから、今のうちに洗い場の掃除をしよう。今日は見ていて下さい。

馬房掃除をしているスタッフは馬が慣れている人達でね、馬房に馬が入ったままでも掃除ができるんだ。慣れた頃にお願いします」


一輪車を押すアフロさんに続いて洗い場に向かう。馬5頭が同時に使用できるそこは、床に泥やウンチが落ちていた。見た目は汚いとは思う。僕はこれから馬の排泄物の処理をしていくのか。予想はしていたけど、嫌な気持ちが勝る。けど、臭いが思っていた物と違った。例えるなら、畑の肥料の臭いだ。でも、鳥肌は立っている。泥だと思い込むことにした。取り敢えず。


「洗蹄場の説明は前にしたよね。

ボロを回収して、ホースの水で綺麗に流して床用水切りで濡れた床の水分をきる。

あ、ボロってウンチの事ね。肥料にもなって凄く美味しい作物ができるんだよ。寄り合い所に出荷している生産者さん達に使って貰っているんだ」


「そうなんですか」


「出荷基準に満たない食べ物を安く譲ってもらって、お返しに肥料を渡せる。馬が自ら物々交換している価値のある物なんだ。

はい、これで終わり。この後は他の動物達の餌交換だ。羊、山羊、ウサギがいてね。草食動物同士仲良くしているよ。

クッキーは牧羊犬みたいな感じで、ここを守ってくれているんだ。動物に悪戯をしに来る人がたまにいてね。クッキーはそういった悪意ある人を見抜く力があって、知らせてくれるんだ」


アフロさんが色々施設内を案内してくれつつ、動物達を紹介してくれる。大きなウサギは可愛かった。


「やっていく内に慣れていくから、何でも聞いてね。あ、そうだ。訓練中の馬達を見ておいでよ」


指を差された先に馬が見えた。正直、まだ遠慮したい気もするけれど、行って柵越しに観察してみる。触るのでは無いから、まだ良いか。


徐々にやってくる光の中、地面を駆ける黒色だった馬が栗色に変化していった。あんなに嫌いな馬は、見れば見る程綺麗になっていく。


「凄いな」


不思議と口から出た感想は、秋の色がついた空気と混ざる。


そうか。馬は生きているんだ。当たり前だけど、僕は現実から目を背けていた。

そう思うと、明日からの掃除をする事も当たり前だと納得できる。食べて、出す。当たり前の事だ。排泄物の処理は正直なところ嫌だけど、でも、やれば何とかなるだろう。


これは、僕が知ろうとしなかった世界だ。

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