第5話
馬が嫌い。-5
僕は、僕でなくなった。誰に謝罪すれば良いかわからずにただ必死にもがいていると、眩しい光に照らされる。ああ、これはゴボにしては眩しすぎるな。
光と共に佇んでいると、両肩を掴まれた。大きな優しい手だ。
「おい!しっかりしろ!」
力強い声がする。誰だろう。力が抜ける。足はもう動かない。目が開かない。
「浦良君!ねえ!…ああもうっ!何て酷い。キームン、早く車に乗せて。病院に行こう」
「わかった。リゼ、運転頼む」
耳だけはハッキリと、リゼさんの声を認識する。僕はそのまま意識が何処かに行った。
『ウララ、素直になりなよ』
夢見心地で、ゴボが僕に語りかけたような気がした。
ーーー
目を開けたら、白い天井。ここはどこだろう。痛くて変だと思ったら、左眼が見えない。左手で触って確認しようとしたら、何かに引っ張られる。これは点滴か。
「起きた?」
左側から、優しい声がする。右眼で探すと梨瀬さんがいた。人語を話すゴボといい、僕はどんな夢を見ているんだ。
「これは、夢だな」
僕は目を閉じて、再び眠る。次に起きた時は、いつものアパートの天井が見えるだろう。
だけど、次に目が覚めた時にも天井は白かった。違うのは、梨瀬さんが座っていた所にガタイの良い男性がいる。まだ僕は夢から覚めていないのかな。
「浦良君。目が覚めたか?気分は?」
この声、さっき聞いた声だ。流暢な日本語だな。
「あの、何があったんですか?」
何で僕の名前を知っているんだろう。何でこの状態になっているんだろう。わからない。兎に角、この男性に聞くしかない。
「ここは病院だ。私はリゼの夫のキームン。
君は道路の真ん中を歩いていたんだ。あの時間は車が殆ど走っていないから、事故にならなくて良かったよ。
君の左眼は大丈夫だ。失明していない」
キームンさんの言葉に、僕のコック服は汚されたんだなとボンヤリ考える。ああ、仕事をサボってしまった。インフルエンザになっても勤務していたのに。こんな怪我だけで入院してしまっている。
「仕事に行かないと」
「それは許可できない。君は明後日まで入院だ」
「僕は大丈夫です。お手数おかけしました。すみません」
「私も反対です」
起きあがろうとした僕に、ビシッとした声が響く。入り口のドアを見たら梨瀬さんと小さな子供が3人いた。3人ともキームンさんにそっくりで、クルクルの茶髪に茶色い瞳が可愛い。
「キームン、子供達とショッピングセンターに行ってきて。チョコミントアイス食べたいんだって」
「わかった。浦良君、お大事に」
梨瀬さんを見たキームンさんの目は、慈しむように幸せそうな表情になった。それで、僕に向き直った時は『リゼに手を出すなよ』と明らかに病人に向けた視線ではない牽制に変わった。怖い。これが琢磨が言っていた愛妻家の姿か。
「あの、ありがとうございました」
「キームンったら、浦良君怖がってるじゃない。ほら、さっさと行って」
梨瀬さんが家族を見送ると、僕のベッドの側にある椅子に腰掛けた。これは、絶対に迷惑をかけている。
「何処かに行く予定だったんですか?」
「少しね。大した事ないわ。次の休みに行けば良いもの」
「すみません……僕のせいで、貴重な休みを無駄にして」
ズキズキと痛む左眼と情け無い僕。謝罪していたら医者が来て、僕の容態を確認して梨瀬さんと共に廊下に行った。暫くして、梨瀬さんだけが戻ってくる。
「視力の心配は無いって。良かったわね。
浦良君の大事に駆けつけられて、運が良かったわ。今は何も心配しないで、寝なさい」
僕の左手に、手を添えて優しく撫でてくる。ああ、懐かしい。でも、この人は母であり母では無い。
「仕事に行かないと。仕事をしないと、僕は意味が無いんです」
「知っているわ。これからも仕事をしたいのなら、今は休みなさい」
競馬場に行ってから数日後。仕事の休憩中に琢磨と梨瀬さんが僕の住むアパートに来た。
何で雲の上の人がこんな僕の所に来るんだろう。理由はわからなかったけど、少し話しをした。とは言っても、馬の話ではなく料理の話。
梨瀬さんの料理の話は、聞いていてとても楽しい。この人の頭の中は情報の詰まった引き出しでいっぱいなんだ。どんな話でも楽しかった。
だからかな。この人には店長とは違った意味で尊敬している。苦労人という言葉が良い意味で相応しい女性だ。
だから、僕には眩しすぎる。
「行かないと、僕の価値が無くなってしまいます」
「浦良君は頑張り屋さんなのね。大丈夫よ。だから、寝なさい」
僕の何をこの人は知っているんだろう。優しく微笑むこの人は、叔母さんとも違う。不思議な人だ。
「心に、穴が開くようで…怖いんです」
僕は弱っているんだな。雲の上の人に、自分の心の中を出してしまった。どうしよう。
「その穴、私が埋めてあげる。モリモリのパンパンにね。楽しみだわ」
「何ですか、それ」
予想外の返答。僕は呆れて梨瀬さんを見れば、ニンマリと笑っている。悪い事を企む子供のような顔だ。
「本気よ。それに…ま、この話は後でね。
眠れないのなら、話をしましょう。試験の勉強は進んでいる?」
今年受ける製菓衛生師の試験。高校時代のアルバイトは実務経験に入らないから、2年間社員として働いて、やっと受験資格を得た。
「はい。僕を社員として雇ってくれている店長には、感謝しています。だから、早く取りたいんです」
「そう。……ねえ、ルバーブは好き?」
ルバーブは蕗みたいな植物で、葉柄部分を食べる。この時期が旬だ。
「普通ですね。塩で煮込んだら梅干しっぽい味になったので、白米のオカズにしています」
「確かに、それも美味しいよね。農家さんからルバーブが収穫時期だって知らせを受けてね。これからジャムを沢山仕込むわ。赤や緑のジャムのタルト。それとポットパイを冬のメニューにする予定なの」
「美味しそうですね」
眠気はすっかり醒めてしまい、時間を忘れて僕は梨瀬さんと話す。左眼の痛みは忘れていた。
製菓店の事は、今は忘れていいんだって言ってくれたから。
毎日同じメニューを作り続ける今の生活も悪くない。でも。古い物も大切にしつつ、次々と新しい料理に挑戦していくのも、楽しそうだ。
こんなに料理について話すのは初めてだ。会話一つ一つが勉強になる。病室のドアがノックされるまで、僕は今が何時かも気にしていなかった。それ程に、夢中だった。
「いいですか?…梨瀬さん、色々と準備してきましたよ」
スーツを着た男性が2人。誰だろう。
「こんなに早く来てくれて、ありがとうございます。浦良君、この人達は労働基準監督署から来たの。本当によくお世話になっていてね。今回は、貴方の力になってくれるわ」
「僕達は自分の仕事をしているだけですよ。梨瀬さんとは良い付き合いをしたいだけです」
「そんな事言ってさ…あ、浦良君ごめんなさい。私事を挟んで」
男性2人が僕の側に来て、鞄から色々と取り出す。それは、僕のタイムカードとかシフト表だった。
「君の事を教えてくれるかな?」
明るい昼の日差し。真剣な大人達の目。僕に向き合ってくれている目。僕は初めて、僕を救ってくれる大人に出会った。
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