底無し池の手

泰規やすきの家から山道を十分ほど登ったところに、池があった。と言ってもそれはいわゆる<農業用の溜め池>であり、本来の自然な池ではなかった。


もっとも、当時の泰規にはそんなことは知る由もなく、いかにもな濃い緑色をしたその池を、彼は勝手に、


<底無し池>


と呼んでいた。実際、そこに落ちて人が亡くなったという話もある。ただし、本当に<底無し>なわけではなく、水深すら深いところでさえ精々三メートル程度で、しかも護岸はコンクリートブロックで固められてもいた。加えて、『人が亡くなった』という話についても実際にはそのような記録はない。ないが、その溜め池が作られてからそれなりの期間も経っており、基本的には釣りは禁止されているもののたまに勝手に釣りに来る者もいて、何らかの<表沙汰になっていない事故>の一つや二つあってもおかしくないような雰囲気はあった。


加えて、泰規はその池の畔で、持ち主不明のクーラーボックスを見付けたことがある。使い込まれた印象はあるものの中身は空で、さらに釣り糸や針が一緒に放置されてもいた。


「……?」


見付けた日は何となく不審にも感じつつも泰規は敢えてそれには構わず、その日はそのまま家に帰った。


次に来た時には、護岸のブロックを下って、水面ギリギリにまで下りてみて、池を覗き込んだ。もしそこで誰かが背中を押したりしたら間違いなく池に転落する格好だった。


「……!」


すると泰規は、緑色に濁った水中に何かを見付け、後ずさる。それは、彼の目には<手>のように見えた。池の底から何者かが手を伸ばしているように見えたのだ。


この時はさすがに怖くなって泰規は家に逃げ帰った。


それから数日は怖くて足が向かなかったものの、同時に池の中に見えた<何か>がすごく気になって、意を決して再び池に向かった。すると、彼が<何か>を見付けた辺りに違和感が。


よく見ると、釣り糸と針が落ちていたのだ。しかもそれは、クーラーボックスと共に落ちていた糸と針だった。かと言って、釣りのために使ったような感じではなく、それこそそこに落としていっただけのような……


その時、泰規は見た。池の水中に、やはり底の方から手のようなものが伸びてきて、水面ギリギリまで近付いてきたのを。


けれどその<手のようなもの>は、泰規がいることに気付いたかの如くにすっと奥へと引っ込んでいったのである。それは泰規には、


『落とした釣り糸と針を取ろうとして手を伸ばしてきた』


かのようにも見えた。


それが、例えば池に住んでいた鯉のようなものがたまたま水面近くまで来たのを泰規が<手>と見間違えたのかどうかは分からない。鯉ではなくザリガニか何かだったのかもしれない。


しかし泰規にはその正体を確かめる術もなく、彼はもう二度と池に近付くことはなかったのだった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る