五十三

おもとから権六の作った器を借りた千夜は早速、その器を店で使いたいと太一とかやに相談した。

で、太一たちもすっかり権六の器が気に入って、元塗物問屋の娘の箔がついていることもあり、権六に何点かお願いしようということになった。


千夜と冬野が権六の家を訪れたのは、翌日のことである。


「お留守、みたいですね」


権六の家は無人だった。

一人暮らしだと聞いていたので、本人が帰ってこないことにはどうしようもない。


また明日にでもということにして、二人はそのまま家には帰らずに、だだっ広い野原まで足を向けた。

特に何があるというわけではないが、とりとめのない話をするにはうってつけで、遠目に小作人が畑作業をしている姿が見えるだけなので他人の目を気にする必要もない。


小さな満月屋の縁側で話すよりも、開放感がある。

童心に帰って走り回りたくなる衝動さえあった。


春日屋のおつゆの出身地も似たような田舎で、子どもの時分にはよく野兎を追いかけて走っていたというその気持ちが、千夜にもわかった。


空模様は所々に晴れ間がのぞくも、灰がかっている。

影は寂しくて、日なたは妙に懐かしい。


「おもとさんはよく冬野さまのお話をされていました」


「私の?」


「坊ちゃま、坊ちゃまって……ふふっ、まさか冬野さまのことだなんて、思いもしませんでした」


冬野は苦笑して言った。


「いまだに坊ちゃま呼びでは格好悪いな。あ……お千夜さんは私の、どういう話を聞かされたんですか?」


寝小便をして泣きべそをかいただの、転んで泣き止まずにいて父にこっぴどく叱られただの、自分の小さいころの出来事を思い出して、冬野はあせった。

乳母だったおもとはその出来事をもちろん知っていて、もし千夜にそんな話をしていたら……


千夜には絶対に知られたくない、恥ずかしい思い出である。


「いろいろと……」


お願いします、良いところだけを抜粋して話していますようにと祈りながら、千夜の返事を待っていると、頬に天から降ってきたしずくが落ちてきた。


「雨……」


にわかに雨足は激しくなった。

大粒の雫が盛大に降り注ぎ、二人の全身を濡らしてゆく。


おもとの家も為造の家もここより遠く、急いで帰るよりも近くで雨宿りをした方がよいと判断した冬野は、千夜の手を引いて、近くの小屋に踏み入った。


小屋には農道具などが納めてあって、他人の所有物だろうが、一時身を寄せるだけは許してほしいと、心の中で許しを乞う。


「通り雨ならよいのですが……」


と言って、冬野は千夜のいる方へ振り向いた。

思わず戸惑ってしまったのは、千夜は冬野に背を向けたまま裾をしぼっていて、妙に白く映えたふくらはぎが目に映ってしまったからだ。


冬野は邪念を振り払うように千夜から目をらした。

それでも心は落ち着かなくて、刀に手を伸ばす。

特にどうしようということもなく、所在なげに刀を壁に立てかけた。


「冬野さま……」


そっと手ぬぐいを差し出して冬野に宛てがおうとした千夜の声が、全身に侵食した。


再び千夜を見た冬野の目には熱がこもっていた。

その熱の意味をさとって身体が硬直した千夜をやんわりと、敷いてあった藁へと押し倒す。

意識はひど眩暈めまいに似ている。


夢中だった。

身体の奥底に秘めていた願望を簡単に曝け出して、いつもよりも深く、千夜を苦しめる。


千夜は抵抗しなかった。

受け入れているのか、それとも恐怖で動けないのか、冬野はそこまでを考える余裕さえない。


「このまま一緒に逃げませんか……」


「でも……」


「今生で結ばれるには、そうするしかない」


そのとき、意識を吹き飛ばすほどの雷鳴がとどろいた。


驚いて顔を上げる先に、雷は落ちたのだろうか。耳をすませば遠い雷鳴も聞こえる。

かげで冷静になった冬野は、千夜から身を離した。


「すみません……!」


止まらなかったのは、自らの意思だった。

千夜を怖がらせることはしたくはないはずなのに、打ち勝てなかったのは己の欲望である。


罪悪感にさいなまれている冬野を見つめる千夜には、恐れも幻滅した様子もなかった。


「貴女に対して誠意がなかった」


もしも邪魔をするものがなかったら、最後まで致していた……

そうすればもう後戻りはできなくなる。


「優しくされたのは初めて……うれしかった」


少し乱れてしまった髪姿があだっぽくて、でも乱暴に扱われた過去を背負う千夜に、これ以上は触れられず、迷いの残る気持ちのまま冬野は目を伏せた。

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