五十四

冬野と千夜が再び権六の家を訪ねたのは、翌々日のことであった。

権六がしばらく家を不在にしていることがわかり、帰ってきたのがこの日であった。


それで今度こそと権六の家に着いたとき、二人は意外な人物と出会った。


「まさかここで坊ちゃんと会うとはな」


権六の家から出てきたのは、北町奉行同心の荒木音十郎である。

江戸市中の町廻りにおもむいているはずの彼が、どうして坂本村にるのか。

まさか事件でもあったのではと思たのは一瞬で、冬野は別の考えが浮かんでいた。


「なぜ貴方がここに……まさか、お千夜さんを追いかけてきたのですか」


音十郎の口ぶりでは、千夜が坂本村に来ていることは承知していたようである。

おそらく満月屋に来たときにでも聞いたのだろう。


音十郎が満月屋に来るのは、ひとえに千夜のことを気にかけていて、千夜も音十郎を頼もしく感じているふしがある。

自分が頼りない男だと思う分、邪推してしまう冬野だった。


「お前みたいに女の尻を追っかけるほど、こっちは暇じゃねぇ」


「私は、乳母の見舞いに来ただけで……」


音十郎に揶揄からかわれている冬野を見て、千夜はくすりと笑った。


そうこうしている間に、家から男が姿を現した。


「儂に用かね」


硬い表情をした男はおもとが言っていたように、気難しそうな印象を受ける。

髪には白髪が混じっていて、歳は五十半ばくらいに見えた。


「権六さんですか?」


「いかにも。まあ、入れ」


「おい……」


権六を呼び止めたのは音十郎である。


「心配は無用。もう大丈夫だ。人と話していた方が気がまぎれる」


うながされて、冬野と千夜は音十郎とすれ違う格好で権六の家に向かった。


「哀しいことがあったばかりなんだ。話し相手にでもなって慰めてやれ」


すれ違ったときに、こそと音十郎が二人にささやいた。



権六の家の中には、塗物が所狭しと並べられていて、うるしの匂いがただよっている。

鼻をひくひくさせている冬野は漆の匂いにやられているが、千夜はこの匂いに慣れていた。

何しろ実家が塗物問屋である。

職人が作りたての塗物を持ってきて店に納めていたのを、頭の片隅で千夜は思い出していた。

権六もまた、どこかの店に品物を納めているのだろう。


二人はとりあえず権六の作業場に通されたものの、権六はさっそく塗物を作り始めて、話し相手になるという雰囲気ではなくなった。


どうしたものかと千夜と顔を見合わせたあとで、冬野が言った。


「そういえば、お千夜さんの実家は塗物問屋でしたね」


「はい。この匂い、懐かしいです」


千夜はそこで、冬野越しにある器が目に入った。


黒を基調とした汁物椀には、正面を向いた兎の絵が装飾されている。

忘れられない光景がはっきりと、千夜の脳裏のうりに描かれた。


「昔、お父さまが……」


その言葉で、権六の手が止まった。


「私が七つになったときのお祝いで、特別に作ってくださった塗物にそっくり」


千夜が父からもらった塗物にも兎の絵が装飾されていた。

その兎は正面ではなく、満月屋の暖簾のれんに描かれているような、横向きの兎であった。

だが、塗物に兎、それだけで思い出すのは、父からもらった大切な塗物である。


同時に思い出すのは、優しい声と、温かい手と……


千夜が穏やかな過去にひたるのもつかの間、それは権六のすすり泣く声にさえぎられた。


「おたね……」


き止められなくなった涙を流しながらつぶやいた、その人は誰だろうか。

権六にとって、大切な誰かだということは確かだった。

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