五十二

「美味しい。さすが料理屋の味ね」


冬野が持参した卵とともに作ったのは月見うどんである。

手際の良い千夜の隣であたふたと冬野も手伝い、二人分の想いが込められたうどんを、おもとは汁まで飲みほして平らげていた。


「見様見真似ですけど……」


長年板前の修業をした一膳飯屋の主人の太一とまったく同じ味にはならないが、それでも人に出せるくらいには料理の腕を磨き上げた千夜である。

夕顔屋にいたときは料理を作るどころか皿を洗ったこともなかった千夜は、人に美味しいと言ってもらえる感激を教えてくれた太一たちに、もちろん感謝していた。


「お千夜さんの作る料理は何を食べても美味しい。太一さんと一緒で真心がこもっています」


冬野はいつでも真っ直ぐだ、と千夜は思った。

揶揄からかっているわけではなく、自然に行ってしまうのだから、言われた方はたまったものではない。


羞恥しゅうちを隠すように千夜が言った。


「この器、とても良いものですね」


千夜が手に取って眺めているのは、うどんの入っていた塗り物の椀である。

黒い漆塗りを基調とした椀で、薄を駆け抜ける兎の絵が描かれていた。


権六ごんろくさんていって、坂本村に住んでいる塗り物職人が作ったものなのよ」


「頼んだら、作ってくれるでしょうか。お店用に何個かいただきたくて……」


満月屋ではしばしば、親戚の集いや還暦のお祝いなどで膳を用意することがあるのだが、その際に用いる食器で新しい物を新調しようと太一たちは話していた。

休業している間に、どこかの店で買い求めようとしていたところである。


「ちょっと気難しい人だけど、お千代ちゃんの頼みならきっと作ってくれるわ」


「太一さんとおかやさんにも相談してみます。この器、お借りしてもよろしいでしょうか?」


「もちろんよ」


「では、お二人も気に入れば、明日は私と一緒にその権六さんのところに行きましょう」


「冬野さま、明日も……」


「しばらく、ここに泊まらせていただこうかと……」


と言って、冬野はおもとの様子をうかがった。


「私は構わないけど……」


正直にうれしそうな顔をした冬野を見て、おもとはくすりと笑った。






高村主計は帰宅するなり、出迎えた蓮にやや声の調子を落として言った。


「冬野を私の部屋に呼べ」


「それが……坂本村のおもとの体調がよろしくないとかで、冬野はしばらくあちらで看病するために、御厄介になると使いがきましたのよ」


「……そうか」


蓮がふと見上げれば、主計は重苦しい表情をしている。

何か良くないことがあったのだと察した。


「旦那さま……」


「冬野の縁談だが、破談となった」



つい先刻のことである。

主計は中原仁兵衛に呼び出され、その座についたのだが、てっきり縁談話の大詰めであると思っていた主計は、意外な話を聞かされたのだった。


「ご子息は中原家との縁談に不服なようだな」


「まだ跡取りとしての自覚が足りていないようで……」


「主計殿は息子の不始末をご存じか」


「不始末、とは……」


「ある飯屋の女に入れ揚げているそうではないか。

許嫁いいなずけという存在がありながら、よくある話では済まされない」


なぜ仁兵衛がそのことを知っているのかと、主計は驚くばかりで返答できなかった。

縁談話に反発していた冬野の様子がおかしいと調べてみれば、冬野は満月屋の千夜という娘とねんごろろになっていて、ただの遊びでも見過ごせないというのに、冬野は本気だった。


この事実は高村家ではなく、恐れていたことだが中原家も知ってしまったようだ。


仁兵衛は盛大に嘆息した。


「どうやら私は、お主のことを見誤っていたようだ。縁談はこちらから願い下げる」


「仁兵衛殿……」


「妾をしていたような娘に惑わされるようでは、先が思いやられるな」


主計の目が、一度だけぴくりと動いた。本当は唖然としたいところである。


千夜が妾をしていたことまでを、主計は知らなかったのだ。

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