四十八

「あら……」


かやは太一と連れ立ってお玉稲荷神社に行こうとした矢先、思わぬ人物が店の開いていない時刻を見計らって満月屋を訪ねて来て、足を止めた。


その人物は初めて見たときと同じく、店を見回して千夜の姿を探している。

生憎と千夜は、つゆと君と神田明神に出かけていて不在だった。


「お千夜さんは?」


「今は出ていて……しばらくは帰ってこないかと」


「そう、ですか……」


太一の答えに、千夜に会いに来た忠吉は肩を落としてみせる。

二人が忠吉をじっと見つめてしまったのは、彼の姿があまりにも哀愁を誘うからだった。

可哀想、何とかしてあげられないかと感じてしまうほど、きつけられるものがる。


「忠吉さんっていったかしら。どうして、お千夜ちゃんに会いに来たの?」


忠吉が千夜の許婚いいなずけだったことは千夜本人から聞いていて、かやたちは知っている。

許婚だったとはいえ、言わば過去の人をわざわざ訪ねる理由が、忠吉の様子から見ても未練だとは想像がつくが、今さらという言葉も浮かんでしまう。


「忘れられない人だったからです……ずっと、助けてあげたかった」


忠吉がすっと涙を流したのを見て、太一とかやの目にも熱いものが込み上げてくる。


この人は今でも、千夜のことが好きなのだ。

そして助けてあげられなかった自分を責め続けてきたのだと、忠吉の真心に触れた気がした。


「私は今でも、お千夜さんと一緒になりたいと思っています。

どうかお二方からもお口添えを願えないでしょうか……」



明くる日、今度は北町奉行同心の荒木音十郎が満月屋を訪ねて来た。


「昔の許婚がねぇ……お千夜はどうなんだ」


このときも千夜はいなかったのだが、これは故意に太一が千夜に買ってきてほしいものがあると、外に行かせていたのである。

太一とかやは音十郎に尋ねたいことがあり、千夜には聞かれたくなかったからだ。


千夜の昔の許婚、忠吉とはいかなる人物か。

大店の娘であった千夜の許婚であったならば、夕顔屋に準ずる家の人間だろうが、周囲の評判だとか、忠吉の為人ひととなりを二人は知りたかったのである。


千夜の事情に詳しい音十郎ならば、忠吉のことも知っているのではと、彼が来るのを待っていたのだった。


「多少は動揺したかもしれやせんが、もう心はかの御仁にあるようでして……」


「美男より旗本の坊ちゃんか」


「男は見てくれじゃねぇです。けど、忠吉さんも良い人で……」


太一の隣で、かやもこくりとうなずいている。


「お前らは忠吉贔屓びいきか」


「そういうわけじゃ……実際問題、冬野さまと結ばれるのは難しいでしょう」


冬野が軽い気持ちで千夜に思いを抱いているわけではないと、太一たちは痛いほどわかればこそ、いずれ打ち砕かれる未来を訪れさせまいと、千夜の違う幸せを模索してしまうのだ。

顔も良し、人柄も良しの忠吉が一緒になってくれるというならば、それこそ千夜の幸せになるのではないかと。


あとは音十郎の太鼓判がほしかった。


「いかにも誠実そうな方で、忠吉さんと結ばれた方がお千夜ちゃんのためなんじゃないかと思うんです」


「そっちも難しいだろうよ」


今は一膳飯屋で働いているお千夜の立場からすれば、相手が冬野でも忠吉でも、身分違いとなってしまう。

だが、忠吉と結ばれる方が遥かに可能性のある話ではあった。


「忠吉さんはお千夜ちゃんと一緒になりたいと、そう言ってくれたんです」


かやの言葉に、音十郎が瞬時に恐ろしい顔をした。

ひっと軽い悲鳴も漏らしたかやの声は、音十郎の威圧にかき消された。


「あいつは女房子がいるんだ!どういう了見で言っていやあがる」






千夜が店の前を竹箒たけぼうきいていると、唐突に声をかけられた。


「お千夜ちゃん……やっぱり、お千夜ちゃんだわ」


千夜はすぐには、声をかけてきた人物が誰かわからなかった。

歳は同じくらいの若い女である。


あっと思い出したのと、女が次の言葉を言うのが同時だった。


「どうしてこんなところにいるの?」


「今はここで働いているんです」


敬語で話してしまったのは、女と格別親しかったわけではなかったからだ。

女はかつて同じ師匠のもとへ通っていた琴の稽古仲間である。

その時分、友達と呼べるほどの交流はなかったのだが、お互いに憶えていたようだ。


彼女も千夜が妾をしていたことを知っている一人である。

だから満月屋にいることに疑問に思ったのだろう、まじまじと千夜を見て驚くような表情をしていたが、それ以上は問われなかった。


「可哀想……昔はいつも目立とうとしていたのに、今じゃこんな暮らしだなんて」


「私、目立とうだなんて……」


そんな風に思われていたのかと、驚愕と失意で苦しくなる。

しかもこんな暮らしと言われたことには、言葉もでなかった。


他人から憐みをもらうような暮らしはしていないというのに、彼女にはどう映っていたのだろうか……


「だっていつも大人しい子とばかりいて、自分だけ目立とうとしていたじゃない」


確かに千夜は、とりわけ静かな娘たちと遊ぶことが多かった。

しかしそれは目立ちたかったわけではなく、千夜もまた大人しい性格だったからである。


琴の稽古仲間たちは、主に二つに分かれていた。

毎日着飾っては芝居小屋に出かけたり、騒ぐとまでは大袈裟だが、若い時分よろしく過ごしていた者たちと、琴だお茶だのに精を出していた者たちである。

話しかけてきた女は前者、千夜は後者だった。


琴を友人たちと爪弾きしただけで、なぜ目立とうとしていたと思われたのか、千夜は見当がつかなかったが、実のところは、千夜は琴の演奏が群を抜けて秀でていたので、目立ちたくなくても琴の仲間内では目立っていたのであった。


しかも彼女やその友人たちが自分の陰口をささやいていたことは、千夜も知っている。

よく知らないふりをしていたことも思い出した。


何も言い返さない千夜が面白くないのか、女はすぐに去って行った。

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