四十七

この日、冬野は休み時をねらって満月屋を訪れていた。

もちろん千夜に会うためである。


笑顔で迎えてくれるはずの千夜は、先日からのぎこちなさを引きずったままだった。


「どうぞ」


時折思い出したように冷たい風が吹くようになったが、それも夕方や夜のことで、午後はまだ蒸し暑い日が続いている。

なので障子戸は開け放したままだった。


稽古帰りの身体に、千夜が出してくれる冷たい麦湯はいつもはうれしいはずなのに、気軽く話しかけられる雰囲気もなくて、湯呑を受け取ってもなかなか喉に流し込めないでいた。

気になったのは、千夜が湯吞を差し出してすぐに、隠すような仕草だったので手をたもとに引っ込めたことである。


冬野が聞くよりも先に千夜が尋ねた。


「ここに来てよろしかったんですか?もっと大事な用事があったのでは……」


「用事なんかありません。……その手、怪我をされたのでは?」


「何でもありません」


およそ千夜の雰囲気には当てはまらない態度に、冬野は思い切って聞いてみることにした。


「……この前から、隠しごとをされているみたいだ」


「私の汚い手を冬野さまに見せたくないだけです」


「お千夜さん……」


千夜が本当に言いたいことは、もっと別にある。

しかし千夜が言ったこともまた、千夜の本心なのだと冬野は察した。


自分は千夜を深く傷つけている。

その自分が慰めたのではかえって逆効果になる恐れがあった。

けれど、この本音だけは言わなければと、冬野はそっと千夜の前に自身の手をかざした。


「私の手はこの通り、とてもきれいとは言えません」


稽古に励むようになってからできたものだが、まめだらけの手は感触さえも無骨である。


「これを見て、お千夜さんは私のことを嫌いになりましたか?」


「まさか……」


頬に触れたとき、手を握りしめたとき、果たして千夜は嫌な顔をしたことがあっただろか。

答えは千夜の返事通りである。


自分も同じだと言い聞かせるように、冬野は柔和な笑みを浮かべた。


「だから、気にしないでください。それにお千夜さんの手は、細くしなやかで美しいですよ」


はっと見上げた千夜の顔は、やっと彼女らしい澄んだ感じになったが、瞳は泣きそうなほどにうるんでいる。

千夜は微笑みかけて、その微笑みを引っ込めた。


何度、両親を説き伏せようとしても、決して千夜を認めてくれることはない。

はかばかしくない状況に、千夜は不安でたまらないはずだ。

もともと不安を抱きながら一緒になろうと思いを通じ合ったというのに、千夜がぎこちなくなってしまったのは頼りない自分の所為せいだと、冬野は思った。


「このまま両親に許してもらえなければ、私は武士という身分を捨てるつもりです」


「いけません、それだけは……」


「お千夜さんと一緒になれない未来はいらない」


「冬野さまは、あせっていらっしゃる」


「……先日、お千夜さんを訪ねて来た男を見たときから、余計に私の心は乱れている」


目の前で想い人が他の男に抱きしめられている、屈辱的な光景を忘れることはできなかった。

その男が昔の許婚いいなずけであるとわかれば尚更なおさらである。


「あの人はもう、過去の人ですから……」


「お千夜さんはそうでも、あの人は違うかもしれない。

もしもあの人から迫られたら、それでも私のことを選んでくれますか?」


千夜の気持ちを疑ったことはない。

けれど、結ばれるはずだった男と再会して、昔の想いが勝ってしまったら……


そんな不安を、冬野はずっと抱いていた。


「冬野さまは……?同じ身分のすてきな女性から迫られても、私のことを選んでくれますか?」


「比べることができないほどに、答えは決まっています」


千夜と誰かを比べることも、比べたこともなかった。

言ってからどきりとしたのは、千夜には自身の許婚の存在である菫のことを話したことはなかったのに、知っているかのような問いをされたからだ。


もしかしたら、千夜は菫の存在を知ってしまって、それで態度がぎこちなくなってしまったのではないかという考えがぎった。


千夜に菫のことを話さなかったのは、彼女を不安にさせたくなかったからだ。

だが、一番の理由は、千夜の心が離れてしまうことを恐れたからである。


元よりこの有様では千夜に見捨てられる恐れはあると、秘密にしていたことは間違いだったと冬野は気づいた。


「実は、私にはいい……」


「いいんです。冬野さまの気持ちを聞けただけで充分ですから」


冬野の言葉をさえぎった千夜に、投げやりな様子はなかった。


「私も同じです。想いが強くなっていくばかりで、さよならなんて言えない……」


だからさよならは冬野さまから言ってほしいという、千夜の声が聞こえた気がした。

冬野は必死にすがりつくように千夜を抱き寄せる。


本気で武士を捨ててもいいと思っているのだと言ってしまえば、千夜は泣いてしまう。

なのに千夜の頬にしたたる涙の筋を見て、届かぬはずの心の声を彼女が聞いてしまったのだとさとった。



外からは、開け放した部屋の中の様子が見てとれた。

忠吉は抱き合う二人の姿を目に焼き付けて、きびすを返す。

二人は見られていたことに気づかなかった。

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