四十九
満月屋は来月より補修工事が始まるため休業となる。
その間、太一とかや、それに千夜はかやの兄の家に身を寄せることになっていた。
補修工事の話を持ちかけたのは千夜だが、ちょうど太一とかやも、店の現状について考えていたところだった。
店の商いに支障が出る前に修理をしなければならないところが所々あり、そろそろ腰を上げなければならないところを、千夜の話が契機となり、補修工事に踏み切ったのである。
千夜は頑として自身の持ち金で工事費用を払うと言っていたのだが、太一とかやも頑として千夜から受け取ろうとはしなかった。
まだ孝行も恩返しもできていないから、今度こそ二人の役に立ちたいと思っていた千夜は、どうしたものかと夜の商いの準備をしながら思案に
千夜が満月屋で働き始めて半年以上の月日が経ち、今では簡単な料理や盛り付けも任されるようになった。
一膳飯屋で働くことの生き甲斐も芽生えている。
何より太一とかやと過ごせる日々がうれしかった。
だから、これ以上は何も望んでは欲張りだと、罰が当たるとさえ感じている。
なのに脳裏に消えずに残るかの人の面影は、消えてはくれなかった。
戸口の開く音が聞こえて、ふいに千夜は顔を上げた。
「お千夜さん」
千夜にとっては懐かしい声だった。
忠吉には許せないことだった。
それは誰しもが許せることではなく、許してくれる人はごく
もう忠吉とは会わない方がいいのだと、それが彼のためだと思うが、結ばれることのない想い人との縁を断ち切れていない自分が言えることではないと、千夜は彼を迎え入れた。
お茶を出そうと引き返した千夜を、忠吉は制止した。
「私と一緒になってくれ。今でも、貴女のことを好いている」
忠吉は真っ直ぐに、千夜を見ている。
「それはできません」
「どうして……」
「今さら、貴方と一緒になることなんてできない」
「あのお武家の方がいいのか……なんて馬鹿なことを」
動揺する千夜に対して、忠吉の目は彼に似合わず冷ややかなものだった。
忠吉に冬野のことを知られているだけでも慌てるべきなのに、彼はその事実に対して
冬野との仲を責められなかったこれまでは運が良かっただけで、忠吉のような反応がむしろ普通なのかもしれない。
しかも責められることは当たり前と、覚悟を決めていたはずだ。
「目を覚ますんだ。お武家の方が本気になってくれるはずはない。
それに、こんな店にいつまでも働いていたくはないだろう」
思わず千夜は、強い眼差しで忠吉を見つめた。
冬野とのことを認めてくれなくてもいい。
けれど、大切な存在を
「貴方にはこんな店でも、私にとっては大切なお店です。
今の私は、貴方が思っている以上に……」
瞬間、千夜は忠吉の平手を食らった。
痛みよりも、暴力を受けた衝撃の方が大きい。
千夜の視界にとらえていた忠吉の顔は怒りを含んでいた。
「お千代さん変わってしまった。昔はもっと……」
忠吉の目に、自分はどう映っていたのだろうか。
ある人には目立ちたがり屋だと、思ってもみない像を見られていた。
果たして自己の形成はどこにあるのかと不安にかられる。
一歩近づいた忠吉に千夜は
幸いにも普段はちらつかせない十手を片手に、荒木音十郎が勢いよく戸口を開けた。
「
「いえ、手加減してくれましたから……」
いきなり店に現れた定町廻り同心の姿に、忠吉は素早く店を後にした。
千夜の言った通り、力任せに叩かれたわけではないので、頬は元の形をとどめている。
だが、手加減だろうと思いっきりだろうと、女に手を挙げるようでは終いだと、自分のためにうどんを作ってくれている千夜の後姿を見て、音十郎は思った。
忠吉は妻子持ちであることを言おうか迷って、やはり言うまいと決めた。
むやみに傷つることはしたくなかったし、そもそも千夜の心は忠吉に向いていない。
一緒になりたいと囁いた忠吉はその実、千夜を妾にでもしようと思っていたのか。
それとも妻を離縁することを考えていたのか。
どちらにせよ、今の千夜には関わり合いのないことである。
湯気の上がったきつねうどんを音十郎の前に運んでから、千夜が言った。
「私は、不幸に見えるのでしょうか……」
大店の商家の娘が、一膳飯屋で働いている。
暮らしは以前よりも乏しいものとなったが、千夜はそれを嘆いたことは一度もない。
千夜にとっての不幸は、いいように玩具にされていたときである。
しかし他人からは、今が不幸に見えている。
満ち足りているのに、どうして……
「少なくとも俺には見えてねぇよ。確かに昔は不幸だったかもしれんが、今は恵まれているだろ。
自分の幸せは他人が推し量るもんじゃねぇ。本当に幸せなら、胸を張れよ」
そう言い切った音十郎は、彼にしては
「夕顔屋を護ろうとしていた強さを持ち続けるんだな」
何度死にたいと思っても、両親の大切にしていた店を護ろうとした強さを。
それは今も心にあり続けていると願って、千夜は力強く
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