四十二

この節、江戸は残暑に向かっているというが、名残りどころか青葉も陽炎かげろうも、真夏の色がまだ濃い。

一膳飯屋の昼の書き入れ時は、汗をかきかき店の中を歩き回り、主に厨房で料理を作っている太一などは暑くてたまったものではない。

そんな真夏にも、太一とかやはまかないを食べ終えると、毎日せっせとお玉稲荷神社に通い詰めている。

いつか倒れやしないかと心配していた千夜だったが、普段もかくしゃくとしている通り、体調を崩すこともしていない。


太一たちが千夜に留守番を任せて店を後にしたあと、千夜は店の雑多な物を磨き上げたり、できる範囲で修理したりと手を動かしていた。

満月屋開業以来から大事にされている物はかなりの年季が入っている所為せいで、がたがきているといったところだ。

物によっては買い替えることもできるが、一番は店の建物自体に無理がたたっている箇所が多い。


そこで千夜は、持っている十両で何とかできないかと考えた。

店の修理をするなら太一たちの許可はもちろん必要だが、もし修理しようとなったときには十両を出してあげようと思っている。


叔父から夕顔屋との手切れ金としてもらった十両は、いまだに使っていなかった。


食事は満月屋で済ませられるし、太一からは給金をもらっているので必要な物は不自由なく買えている。

特に使う予定もなければ、欲しいものもない。


だから千夜は、十両は太一とかやのために使いたいと、日頃の恩返しをしたいと考えていたのだ。


夜にでも相談してみようかと、料理器具を磨き上げながら思いを巡らせていると、店の戸口が開いた。

顔を上げて見やれば、遠慮そうに忠吉が立っていた。



先日の勢い込んだ様子は感じられずに、千夜はとりあえず忠吉を小上がりに案内した。

忠吉は無言のまま千夜が出したお茶を飲んで、千夜が真向かいに座ったところで口を開いた。


「今はここで働いているのかい?」


「はい。わけあって、上野を出ることになりましたから」


千夜が何のために上野にいたのかを知っている忠吉は、そのわけを聞かなかった。

もう一度、喉を茶でうるおした忠吉の湯飲みが空になったのに気づいて、千夜が急須をれる。


「貴女の叔父はひどい……」


思わずぴくりと手が動いてしまった千夜だが、無事に湯呑に注ぐことができた。


「本来なら、貴女が家付娘なのに」


「もういいんです。仕事も食べるものにも困っていませんし、ここのご主人やおかみさんにも、大変よくしてくださっていますから」


両親の位牌や墓を拝むことができないのが心残りだが、その他の夕顔屋に対する未練はなくなっていた。

残された宝物は両親が買ってくれた琴と思い出だけである。


一度は苦界を見た千夜が、心の底から思うのは、今の生活に満ち足りているということだった。


実の娘でもなければ一切血のつながりのない他人の千夜を、太一とかやは大事にしてくれている。

再び温もりをくれる人たちが近くにいて、不満があるはずがなかった。


「あのとき、私は無力だった。でも、今からでも……」


「忠吉さん」


彼の未練を打ち破るように、千夜が言った。


「私は満月屋の千夜です。夕顔屋の千夜はもうどこにもいない。

私には私の、忠吉さんは忠吉さんの道を生きている。これからは交わることはないけれど、忘れないでいてくれてうれしかった」


結ばれるはずだった人が、今も自分を覚えていてくれた。

これ以上は望んではいない。


他の人を好きになった千夜の、彼に対する最後の我儘わがままだった。


「私のことは映らないというのか……」


「貴方が映しているのは、きれいだった頃の夕顔屋の千夜です」


忠吉に対して責めるように言ってしまって、あのとき彼に許してほしかったのだと思い至る。

もしも許してくれていれば、違った未来を生きていたかもしれない。


今が不幸せであれば、もしもの未来に嘆いていただろうが、すでに終わった後だと千夜は踏ん切りをつけられる。

冬野に出会うより前に、忠吉とは終わっていたのだ。

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