四十三

夕顔屋の一人娘として生まれた千夜は、両親の良いところだけを受け継いでいると、誰もが口をそろえて言ったものだった。


江戸にある塗物問屋の中でも五本の指には入ろうかという大店の娘ながら気取ったところもなく、他に兄妹もいない分、両親には大切に、大層甘やかされて育った千夜の欠点といえば、世間知らずなところくらいである。


とりわけ秀でていたのは、琴の演奏だった。


両親はときどき知人や商人仲間を料亭に呼んでは、千夜に琴を演奏させて自慢していた。

招かれる方も下手な演奏ではなく、れする演奏が聴けるので、誰も悪い口は叩かなかったものだ。


秘かに言われるとすれば、「お千夜ちゃんの婿選びは大変そうだ」といった軽口である。


そのとき十二歳だった千夜は、まだ婿をもらうには早く、大事に手元に置いて育てている両親も考えてはいない。

一人娘なので将来、婿を取ることは決定事項だったが、まだ先の出来事とこの頃の千夜には、まだ遠い未来に感じられていた。


「じゃあお千夜、留守は任せたよ」

「お土産買ってくるからね」


千夜の両親はそろって王子の滝まで足を延ばしに行くことになっていて、夕顔屋の主人である父の都合が開いた今、いつもつきっきりでいてくれた両親に、せっかくならば夫婦水入らずで過ごしてほしいと、千夜は夕顔屋に残ることにしていた。


「いってらっしゃい」


両親を笑顔で見送った千夜だったが、まさかこれが両親との今生こんじょうの別れとなってしまうとは、夢にも思わなかった。



両親が王子へ向かった日の夜中、慌ただしく夕顔屋の門を叩く音が聞こえて番頭が出ると、外には血相を変えた手代がいた。

この手代は千夜の両親の付き人として、一緒に王子へ向かった者である。


今日は宿泊して、帰りは明日になるはずなのに、何故この手代は帰ってきたのか。

しかも主人夫婦は一緒ではない。


「だ、旦那さまたちが……」


両親の遺体が夕顔屋に戻ってきたのは、翌日のことだった。


王子の滝を見る前に、千夜の両親は近くの寺に寄っていたそうだ。

まさに運が悪かったとしか言えないが、寺の一部で改修工事を行っていて、たまたまその現場の近くを通ったときに地震が起こって、足場に積み上げてあった板敷がすべて崩れ落ちてしまい、二人は下敷きになってしまったのである。


すぐに他の参詣客らによって板敷は退けられたものの、二人は即死に近い状態で発見された。


主人の言いつけで茶屋で待っていた付き人の手代と女中は事故に会わずに済んだのだが、突然の出来事に慌てふためき、役人が駆けつけてきてからやっと、とりあえず手代が店に帰って報告しようと戻ってきた。


そして、変わり果てた姿で両親は夕顔屋に帰ってきたのだ。


「うそ……こんな……」


昨夜の手代の報告を聞いても、千夜は両親の死を信じられなかった。

きっと何かの間違いで、事故で怪我をしてしまっただけだと、けれどその夜はたまらなく心配で一睡もできない有様だった。


帰ってきた物言わぬ両親を前にしても、二人の死を信じられないでいる。

それは父と母ではないような気がしたのは、事実を受け入れたくなかったからだ。


「お父さま、お母さま、どうして……」


嫌でも思い知らされる現実は、幸せの崩壊の始まりだったのかもしれない。

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