四十一

君が茶店の床几しょうぎを離れて境内けいだいにいる子どもたちと遊び始めたところで、千夜は笑顔を消した。

とても笑える心境ではなかったのだが、君の前で思い詰めた顔もできずに、普段の仕事のときも無理をしていたのを、やっと崩したのだ。


冬野には許婚いいなずけがいた。


その衝撃は心を平静に保つことが苦しくて、張り裂けそうだったときに、折よくつゆが君を伴って満月屋を訪ねてくれた。

つゆには、しかも店の中で実はと打ち明けることができなかったのだが、千夜の様子の機微を感じ取ってくれたつゆがいつものごとく神田明神へと誘ってくれたのである。


唯一、冬野とのことを相談できるつゆは、穏やかに千夜の話に耳を傾けた。


「まあ、何て人かしら……」


冬野の許婚だと名乗った菫が満月屋に来訪した顛末てんまつを聞いたつゆは、呆気あっけにとられたようにそう言った。


金で冬野との縁を切れと迫ったのは、おそらく菫の独断での行動である。


菫に対してどうこう思うよりも、千夜はまず驚いた。

あとから考えてみれば、許婚には秘かに想い人がいると知ってしまった菫の胸中に、何も言えなくなった。


原因は他ならぬ自分であり、ただでさえ家の決めた相手に嫁がされる者からすれば、たまったものではないだろうと複雑な気持ちである。


ただ、正直に言えば、冬野に許婚がいたことに心が切り裂かれるようでもあった。


「許婚がいたなんて知らなかった。知っていたら……」


あの山王祭の夜の日に、想いを伝えずにあきらめていたかもしれない。

果たして本当にそうだったのかと問われれば即答できないが、迷う気持ちはもっと大きかったはずである。


どうして、冬野は許婚がいることを打ち明けてくれなかったのだろうか。


隠されたことに不快感を抱いてしまった。


「もしかして、縁談話ができてしまったから、ご両親に打ち明けようって決めてくれたんじゃないかしら」


千夜の内心に答えるように、つゆが明るい顔で言い切った。


「だって縁談があるなら、お千夜ちゃんと一緒になるのは余計に難しいのに、それでもあきらめなかったんだから、冬野さまは本気なんだわ。

本当に一緒になりたいのは、お千夜ちゃんだってこと。

許嫁のことを言わなかったのは、きっと心配をさせたくなかったからよ」


冬野はあせっている様子だった。

それは許嫁という存在ができてしまったからだとすれば、つゆの言ったことは満更でもない。


(冬野さまの気持ちはうれしい。だけど……)


千夜の脳裏のうりに、冬野に迷惑をかけるなという菫の言葉がよみがえった。


迷惑は承知で一緒になりたいと決めた覚悟がまた揺らぎだして、心はもろく、頼りない。


「……身を引いた方がいいのかもしれない」


「お千夜ちゃん……」


「冬野さまには、あの人の方がずっとお似合いだもの」


「何言ってるの。お千夜ちゃんはとっても可愛くて、心根だって優しい素敵な人よ」


「手が……」


「手?」


菫は整った顔立ちをしていて、武家の娘だからかたたずまいも凛としていた。

一番かなわないと感じたのは、菫の白く美しい手である。


「汚れがなくて、本当にきれいな手をしていて……私なんか、適うはずがない」


千夜も昔はきれいな手をしていたのだが、一膳飯屋で働くようになってからは水仕事が増え、あかぎれができてしまうようになった。


こんな手を冬野に見せていたのか。

こんな手を冬野は握りしめてくれたのか。


切ないほどに、自分は武家の女になれるはずがないと、知らしめられるようである。


「おねえちゃん、元気ないの?」


境内で遊んでいた君が駆け寄ってきて、心配そうに千夜の顔をのぞき込む。

千夜は無理やりにうれいを払拭ふっしょくさせた。


「ううん、何でもないの。また一緒に遊んでくれる?」


「もちろん!」


つゆはなぐさめの言葉を言い損なってしまい、もう一つ言おうと思っていたことも言えずじまいになった。

かつての許嫁が千夜の消息を知りたがっていたことを伝えるべきか、つゆは悩んでいたのだが、今は余計に心を乱してしまうだろうと、この日は口にしなかった。

そして千夜も、満月屋に忠吉が訪ねてきたことを言う機会を見失っていたのだ。

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