三十八

この日、春日屋にはめずらしい客が訪れていた。


「いらっしゃい、忠吉さん。山王祭以来ですね」


突然の来訪者だったが、喜左衛門は快く招き入れた。

酒問屋志摩しま屋の若旦那である忠吉は、喜左衛門とは見知った仲である。


同じ日本橋に店を構えていて、つき合いの飲みの席などでは歳も近いこともあり、他の店の歳の離れた主人たちよりも忠吉といることが多い。

といっても、忠吉が飲みの席に顔を出すようになったのは最近で、それまではほとんど交流もなかった。

近々、忠吉は父より店を譲られることになっているので、商人たちの会合に顔を出すようになったわけである。


兎も角も、油問屋と酒問屋、業種も違えばお互い店を訪ね合うようなほど親密には至っていなかったので、忠吉が訪れたことは意外だった。


「実はお尋ねしたいことがありまして……」


つゆが運んだお茶を軽く頭を下げていただく忠吉は、どこか思い詰めたような顔をしている。

喉を潤してから、忠吉は言った。


「山王祭のときに、春日屋さんたちと一緒にいたお方のことです」


腰を上げて去ろうとしたつゆと喜左衛門は、思わず顔を見合わせる。

まさか冬野と千夜の仲が露見してしまった……

二人が危惧きぐしたことは同じで、つゆは喜左衛門の隣に座ることにする。

山王祭を見物した料亭に忠吉もいたことは、あとで喜左衛門から聞いてつゆは知っていた。


「お千夜さんは、今どこにいるのですか……?あの方は夕顔屋のお千夜さんですよね」


予想外の言葉に、またも喜左衛門とつゆは目線を交わらせた。

内心ほっと息を吐いて、喜左衛門が落ち着いた調子で尋ねる。


「お知り合いだったのですか?」


忠吉の整った顔が哀しく歪んだ。握り固めた拳は震えている。


「私の……許婚いいなずけでございました」


「そんなはずは……私どものご一緒したお千夜さんは、一膳飯屋で働いている方です。忠吉さんの許婚など……」


「いえ、確かにあの方は私の知っているお千夜さんでした。許婚であった人の顔を忘れるはずはございません」


「夕顔屋と言いましたね……ああ、思い出しました。でも、あそこの娘さんは……」


喜左衛門は先を言いよどんだ。

噂でしか聞いていなかったのだが、口に出して言えるものではなかった。

しかも噂が本当であるならば、ますます満月屋で働く千夜が夕顔屋の千夜であるとは合点できない。

かといって忠吉の勘違いと片付けるにはできない深刻めいたものを感じられる。


「忠吉さん」


語調はなめらかに、だけど凛としたつゆの声が割って入った。


「今さらお千夜さんに会って、どうするおつもりですか?」


「つゆ、知っていたのか……」


千夜が、夕顔屋の千夜であることを否定しなかった。

ではなぜ大店の娘が一膳飯屋で働いているのかという喜左衛門の疑問は、つゆの真剣な表情の前に問いかけられなかった。


「もう会えないとあきらめた人です。でも……無事な姿を見て、ただただ会いたいと……」


「妻子のいる貴方が会えば、ただ会いたいと思っているだけでも、いらぬ火種を家に持ち込むことになるかもしれませんよ」


「ですが……」


「あの子だって、今を生きているんです。昔のことを掘り返しても、お互いのためにはならないわ」


つゆにさとされても、忠吉は納得しきれていない様子だった。

いくらねばっても千夜の居所を教えてくれないとわかって、やはり浮かない顔のまま忠吉は春日屋を後にした。



「あの子が夕顔屋のお千夜さんだというなら、どうして満月屋で働いているんだ。

可哀想に……どこぞの旗本のお妾さんになったんじゃ……」


忠吉が去って夫婦だけになり、事情を知っているであろう妻に喜左衛門はようやく聞いた。


「お千夜ちゃんのことを命懸けで助け出してくれた方がいるんです。

実家に帰れないのは、商家の主人である旦那さまなら察してください」


夕顔屋の先代、つまり千夜の父とその妻は、数年も前に鬼籍に入っている。

両親がいればそもそも娘を妾にさせるようなことはなかったが、先代を継いだ叔父の松次郎は、自由の身になった千夜を迎え入れることはしなかった。


大店の娘が妾をしていた。

それは喜左衛門も知っているくらいなのだから、親戚や近所の者が知らぬはずはない。


世間は妾をしていた千夜をそしる。

嫌々という訳よりも、妾をしていたという事実が、つまらない世間体が千夜を店に置けない理由なのだと、これも世間体を気にしなければならない主人の喜左衛門は理解した。


「私、悪いことをしてしまったのかしら……お千夜ちゃんにも、忠吉さんにも……」


山王祭見物に千夜を誘ったのはつゆである。

忠吉が同じ料亭にいることを知らなかったとはいえ、しかもまさか元許婚だとは思う余地もなく、二人を引き合わせてしまった発端ほったんを作ってしまったことに、つゆは罪の意識を感じていた。


「忠吉さんに、お千夜さんの居場所を言ってあげた方がよかったんじゃ……」


「まあ、何てことを仰るのです」


「忠吉さんが真実、どういう気持ちを抱いているのかはわからない。

だけど、昔の情念を思い出してしまったとしたら……

報われないこいより、忠吉さんに愛された方が幸せなんじゃないだろうか」


そこでぴんと空気が張り詰めたことに喜左衛門は気づいた。

何度か経験したことのあるこの感覚は、妻を怒らせてしまったときのものだと、恐る恐るつゆを見れば、案の定そっぽを向いてしまっている。


「旦那さまは、またお千夜ちゃんに妾をしろと、そう仰るのですね」


「いや……」


「仰ったではありませんか。なら、なぜ山王祭にあの方を連れてきたのです。

お千夜ちゃんの素性は知らなくても、身分違いの戀だとはわかっていたはずでしょう……」


一膳飯屋で働く娘と旗本の子息。

身分で言えば、つり合いが取れていないことは一目瞭然である。


喜左衛門もまた、二人の仲を感づいていて何も言わなかった一人だった。


「…………」


「そんなことを仰るのなら、私のことも諦めるなり妾にするなりすればよかったじゃない……」


「つゆ!」


怒鳴ってしまった後で、強く言い過ぎたとあわてて喜左衛門は息を吸い込む。

静かに泣き出した姿を見れば、その気持ちごと包み込むように背後から抱きしめた。


「私にもあの二人の気持ちがわかるから応援しているんだ。

すまない……もう馬鹿なことは言わないよ」


どんなに反対されようと、決して諦めることのできなかった気持ちを、喜左衛門は身をもって知っている。

つゆのことを諦めたいとも、妾にしようという気も微塵みじんもなかったあの頃の自分と、きっと同じなのだと、燃ゆる戀を見てしまうのだ。


「私たちとは事情が違うってわかっています……」


百姓の娘が大店に嫁ぐよりも、町娘が旗本に、しかも御書院番を務める格式高い武家に嫁ぐ方が、遥かに立ちはだかる壁が大きく高い。

仮に、つゆのように先に子どもができてしまったとしても、許されるどころかそれこそ縁の切れ目となりかねないのだ。

もっとも千夜と冬野は清い仲を続けているが……


「誰が何と言おうと、私たちだけは応援しようじゃないか」


つゆは涙を拭ってくれる夫の手を取って、力強くうなずいた。

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