三十九
重たい足取りで冬野が千夜を訪ねたのは、山王祭の夜から数日が経った後だった。
「反対されるどころか、相手にもされません……」
両親に千夜のことを打ち明けた冬野だったが、やはりというべきか、許してもらえるはずもなく、何度説得を試みようとしても、もはや話も聞いてくれない有様であった。
『お前の相手はすでに決まっておる』
父はそう口にしたのを最後に、冬野の話を聞こうともしない。
母も困り切った顔をしている始末だ。
「そう、ですよね……」
許されないのは百も承知だったが、相手にもされないという事実は二人を打ちのめしている。
どんなに優しい両親だろうと、それは許されないことであるし、冬野の父は厳格なので尚更だった。
だからこそいつものように、いや、いつも以上に叱責されることを覚悟していたというのに、むしろ父の態度には困惑するばかりである。
「しかし、早く認めてもらわなければ……」
長い戦いになる見込みは充分にあるはずなのに、冬野は
ずるずる引き延ばしにするつもりはないのだと
「冬野さまは戦ってくれているのに、私は待つだけ……」
「待つことも戦です。それに、お千夜さんもいずれ戦場に出向くことになると……」
両親が話を聞いてくれるようになっても、千夜が武家に嫁ぐまでにやらねばならないことはたくさんある。
千夜の戦いはこれからだった。
だが、その戦いは巡ってくるのか。
早くしなければ、菫との縁談が進んでしまう。
千夜は冬野が抱える心配の種までもを、このときはまだ知らなかった。
冬野が一旦の報告をしてからは、しばらく同じ状況が続くだけだった。
そんな中、待つ身の千夜は普段通りを心掛けて、一人になったときにだけ悩んでいる。
おおよその事情を冬野から聞かされた太一とかやは、二人のことが心配でならなかったが、あまり口出しはしないようにと、こちらも心掛けていた。
「毎日お稲荷さんばっかりじゃ飽きちゃうわよねぇ、お千夜ちゃん」
昼の商いが終わって、満月屋の面々は店の小上がりで
満月屋の名物である稲荷寿司は、毎日欠かすことなく店に並べられる料理である。
店で食べるもよし、お土産にするもよしで、好評の品だった。
「ちっとも……」
飽きません、という言葉は、戸口の開く音に
すでに
では誰がと戸口の方を見やった三人は、入ってきた人物を見て固まった。
戸口の前には、見るからに武家の息女とわかる若い女と侍女らしき女がいた。
満月屋には新之介の妹が来ることもあるが、それは縁あって千夜と懇意にしているからであって、一膳飯屋に武家の人間が訪れることは、通常ありえない。
あまりにも異質な武家の女は、千夜だけを
「貴女が千夜さんかしら。お話がありますの」
千夜と女は小上がりで対面した。侍女は小上がりには腰をかけず、女の近くに
太一とかやも厨房から、固唾を呑んで千夜を見守っていた。
女は菫と名乗っただけで、かやが運んだお茶にも手をつけようとしない。
まったく知らない、しかも高貴な人物が訪ねて来たことに、戸惑う千夜は何も聞けなかった。
歳は同じくらいであろう娘に委縮してしまうのは、先ほどの凛とした声音と態度がそうさせた。
「前置きはいたしません」
口を開いた菫はそう言うなり、白いすらりとした手で千夜の前に金包を置いた。
ざっと百両くらいと思われる金包を押し出されて、千夜は叔父夫婦に手切れ金を渡されたときを思い出した。
身内に金で縁を切られた、あの嫌な感覚が
「あの……」
「これで冬野さまと別れてください」
千夜は想い人の名を聞いて、目を見開いた。
「……貴女は、冬野さまのお身内の方ですか?」
冬野が打ち明けたことで反対した家人が、内々に縁を切らせようとして来たのかと聞いてみるも、尋ねた千夜自身、どこか合点ができない。
冬野に妹はおらず、縁を切らせようとするのに親戚の娘が来るだろうかと考える。
菫が口にしたのは、またしても千夜の胸を
「いずれ身内になりますの。今は
千夜は微動だにしなかった。できなかったという表現が正しいのかもしれない。
鈍器で殴られたような衝撃を受けたのは確かで、心は平静でいられなかった。
「貴女のことは父上さまには申し上げておりません。
これ以上、冬野さまにも私にも迷惑はかけないでください」
今なら事を荒立てずに、内々に済ませられると菫は言っている。
金包は、その解決金ということだ。
千夜はやっと、震える声で
「お受け取りできません」
菫がはじめて不快な顔を露わにした。
金で済まそうとされた屈辱を受け取りたくなかった。受け取れば、より一層
何より菫に屈したくないという気持ちが、千夜を奮い立たせていた。
その思いが通じたのか、千夜が絶対に金を受け取らないと
「……今後は身をわきまえて行動しなさい」
吐き捨てられた言葉に、武家の威厳は少なくなっていた。
苛立ち紛れに出て行く菫と侍女の姿が見えなくなってから、太一がかやを急き立てる。
「塩だ、塩」
かやが大量の塩を握って店の前にまき散らしたとき、運悪くも塩をかぶってしまった男がいた。
「何しやあがる……」
「荒木さま……!すまねぇです……」
塩を払いながら店に入ってきた音十郎の声は、いつもの伝法な口調ながら、
店の中に
小上がりに座っていた千夜は音十郎にお辞儀をして、そそくさと奥へ消えてしまう。
その後をかやが追って行った。
「何かあったのか?」
「いえ……何でもございませんや」
太一もこればかりは町方同心には相談できない。
さきほど満月屋を出た武家女と関係があると、音十郎はわかっていた。
先日、千夜をつけていた中間は中原家に仕えている男で、実は菫に命令されて千夜を探っていたのだと、音十郎に白状していたのである。
菫はなぜ千夜のことを調べていたのか。その裏にある高村家と中原家の縁談話までを突き止めたところで、音十郎の出る幕はない。
「そうか……」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます