三十七

幾ばくか憂鬱そうな顔で夫が帰ってきたのを、蓮は真夏への突入を感じさせる陽射しと気温の所為せいだと思った。

他人が見れば気づかないであろう主計の内心をうかがえるのは、ただ一人蓮だけかもしれない。


蓮とて、はじめは赤の他人だった。

心の中をのぞけるようになったのも最近とも言える。

親の決めた縁組に何の不満も抱かずに、大きな衝突もないまま、一子を授かることもできた。


どこか形ばかりの夫婦ととらえられなくもなかったのが、すでに前から家族であったと確信にも似た落ち着きは、主計と心が通じるようになってからわかったことだ。


しかしこのときばかりは、蓮の予想が外れた。

予想だにしないものまでもを、妻がさとることはできなかった。


「おかえりなさいませ」


主計は刀を蓮に手渡しながら言った。


「冬野は帰っておるか?」


「はい。旦那さまにお話があるとか……」


道場から帰ってくるなり、父が帰ってきたら話をしたいと言った冬野の顔を思い出して、蓮は不安を覚えた。


蓮にとって、冬野は親に逆らったことなどない従順で素直な子どもだった。

それがはじめて嫌だと主張したのが、中原家との縁談話である。


もしも、主計が憂鬱そうにしているのと、冬野の意思が関係あるのだとすれば……

まさかそんなはずはないと自分に言い聞かせようとするより早く、主計が否定した。


「ちょうどよい。私も話があるゆえ、冬野を部屋に呼んでくれ」


蓮は動揺を露わにしないように努めながら主計の着替えを手伝い終えると、冬野に声をかけた。



夕暮れの光が射しこむ部屋はまだ明るい。

互いの顔をはっきりと見ることのできる親子は、向かい合って座っていた。


「父上、申し上げたいことが……」


「まずは私の話を聞け」


出鼻をくじかれた冬野だったが、冷静に父の言葉に従った。


少しの静寂の間を作ってから主計は言った。


「神田は相生町にある、満月屋という一膳飯屋を知っておるな」


冬野は驚きを隠せないままに主計を見る。

父はすべてを知っているのだ。今まさに言わんとしているすべてを……


恐ろしいまでに、主計は普段と変わらぬ落ち着いた様子だった。

責め立てられないことがかえって怖い。


「千夜という娘が働いているそうだが……」


冬野はたまらず口を開いた。


「お千夜さんのことを調べたのですか」


非難するような冬野の言い方に、主計が問い詰めるような目を向けた。

その中に宿すのは怒りか、落胆か……負けじと、冬野は拳を握り固める。


「私は、お千夜さんと一緒になりたいと思っています」


打ち明けられた一時の安堵あんどすら訪れなかったのは、勢いよく蓮が襖を開けて部屋に入って来たからだった。


「冬野……!なりません、それだけはなりません……」


泣きそうな声で訴える母の声を聞きながら、断じてうつむくことはするまいと、冬野は前を見据える。


「お前の話とは、そのことか?」


「はい」


父なら問答無用で一蹴いっしゅうするだろうと踏んでいたのが、意外な反応だった。

だが、許してくれる気配は微塵も感じられない。

母の反応こそ、父の気持ちの化身に見えた。


「いけないことと承知で申し上げております。お千夜さん以外に、私は誰とも添い遂げるつもりはございません。

どうか、お許しください」


畳に額をこすりつける冬野を、主計はしばらく黙ったまま見下ろしていた。






山王祭の翌日、祭りの残り香はまだ町の中に残っていた。

だがそれも、明日になれば消えてしまってもおかしくはないほど、あっけなく消えてしまうだろう。


消えないのは、あの月夜にささやかれた冬野の声と温もりだ。


満ち足りているはずの千夜が浮かれないのは、自分たちのことを両親に打ち明けると言った冬野が心配でならないからである。


どうあっても冬野と添い遂げたい。

冬野も同じ想いを抱いてくれたからこそ、二人は立ち向かう決意をした。

けれど、簡単に上手くことが進むとは毛ほども思っていない。

また冬野が謹慎させられるような事態になれば、それよりもひどい仕打ちを受けることになったならばと、どれだけ心配したところで千夜はただひたすらに待つだけの身である。


冬野に意識を向けて縁側に座っていた千夜は、足音を聞いた。

太一とかやは稲荷詣りに行ってまだ帰ってきていない。だが、足音は一人分だった。


ならばと、見上げた先には冬野ではなく、荒木音十郎が立っていた。


「どこかの坊ちゃんじゃなくて悪かったな」


顔に出ていたのかと焦った千夜を、音十郎は面白そうに見る。

音十郎が気分を害していないと知って、あとは面映おもはゆい気持ちに駆られた。


「この前、お前がつけられたって話だが……」


山王祭の数日前、つゆと神田明神に出かけた帰り、誰かにつけられていると逃げ出したところでばったりと音十郎と会ったのである。

律儀に音十郎は探ってくれて、報告に来てくれたのだった。


「調べてみたが、それらしい奴はいないようだから安心しろ」


千夜はほっと息を吐いて頭を下げた。


「無駄なご足労をおかけして、すみません」


「なに、後からじゃ遅いんだ」


多忙な定町廻り同心は、すぐに千夜の元を去った。


音十郎は千夜に嘘を吐いていた。

千夜が誰かにつけられたと言った翌日には、実際に千夜をつけていた男を見つけていたのである。


問い詰めてみた結果、男は千夜を下衆な願望でつけねらっていたのではなく、さるお方に頼まれて千夜を探っていたと白状した。

男は武家に仕える中間ちゅうげんだった。


町方の同心が武家に介入することはできない。ましてや同心よりも高貴な旗本であれば尚更なおさらだ。

介入すれば、いかなる罰をも受けるかもしれないと承知で、音十郎は男をさらに問い詰め、千夜を探っている大元を吐かせていたのだが……


(お千夜に言えるわけねぇよなあ……)


意外な家に仕えていた男のことを、秘めるよりほかはなかった。

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