三十三
「料亭の一室を貸切って、山王祭を見物しようと思っているんです。
ぜひ、皆さまもご一緒にいかがかしら」
満月屋を訪れたつゆは、千夜と太一、かやに誘った。
親子三人だけでは寂しいので、折角だからと満月屋一行を招待しようと決めていたのである。
来たる山王祭は、明後日に迫っていた。
「お千夜はともかく、俺らが同席するのは申しわけねぇことで……」
と言ったものの、太一はうれしそうな顔をしている。
料亭で祭り見物をするなど、一膳飯屋で働く太一たちにとっては、普段は味わえないことだった。
「何を仰いますの。旦那さまも、日頃のお礼がしたいと常々口にしていたところなんです」
遠慮がちに太一が同意して、千夜とかやは手を取り合わんばかりによろこんだ。
この日、つゆは娘の君を連れてきていなかったのだが、二人きりで神田明神に行かないかという誘いを千夜は受けていた。
つゆと神田明神に行ったのは、つい先日のことである。
神社に何度も足を運ぶことは御利益をもらえそうだし、歳上だがあまり気兼ねしないつゆと一緒にいるのが好きだった千夜はもちろん足を運んだのだった。
参詣を終えた二人が茶屋に腰を下ろす流れは、定番になりつつある。
「
つゆが神田明神に誘ったのは、千夜と遊びたいという気持ちもあったが、太一たちの前では話せないことを言うためだった。
「山王祭のことだけど、よかったらあの方もご一緒できたらと思って」
それが冬野を指しているのだと、千夜はすぐに察した。
つまり祭り見物をする料亭に、冬野も呼んではということらしい。
いくら太一とかやも応援してくれているとはいえ、建前上、おおやけに話すことはできない内容である。
千夜はつゆの厚意に感謝した。
「一緒に祭り見物をしたいと言ってくださったんですけど、あいにく用事があるみたいで……」
そもそも冬野と山王祭を楽しむことができる身分ではないと、もしも用事がなかったとして誘われたとしても、断っていたに違いない。
しかし、つゆたちも一緒にいるのならと、料亭での祭り見物を決め込もうとはしたかもしれない。
いや、絶対にしていたと、あれだけ花見に行ったことを悔いていながら、つくづく千夜は自分の愚かさを感じた。
「そうなの……残念ね」
「あの……どうしておつゆさんは私たちのことを、その……応援してくださるんですか?」
成就するはずのない身分違いの恋をしていると知れば、まずは咎めるのではないのか。
それか
だが、つゆは一度も千夜に対して否定的なことは言わなかった。
面白がっているのではなく、親身になってくれるからこそ、合点のいかないことである。
「実は私もね、身分違いの恋をしていたから」
過去の哀愁も混じっているかのように、憂いさえ
喜左衛門の妻となる以前の話かと思ったのだが、つゆは意外なことを続けた。
「今でこそ大店のお内儀さんだけど、私は百姓の生まれなの」
目を見張った千夜に、今度はにっと笑う。
さっきまでの大人びた表情は消え失せていた。
疑う者さえいないはずだ。
性格は大らかすぎるかもしれないが、言葉遣いも所作も、違和感はまったくといっていいほどない。
つゆは喜左衛門との
中野村で代々百姓をしている家につゆは生まれた。
小さい頃は日が暮れるまで野兎を追いかけ回していて、肌は小麦色に焼けていたと言うが、今では透き通るような白い色をしている。
「君は昔の私にそっくり……」
娘同様に、かなりのお転婆だったそうだ。
兎を追いかける歳を過ぎて、つゆは庄屋の口利きで春日屋に奉公することが決まった。
二、三年も繁華な日本橋で暮らせば、田舎娘はすっかり垢ぬけて、いつしかつゆは春日屋の若旦那に見初められたのだ。
主人や若旦那が奉公人に手をつけるというのはよくあることだが、春日屋の若旦那は本気でつゆに惚れ抜いていたし、つゆとは清い関係だった。
つゆも本気になって、いざ夫婦になりたいと互いが願ったとき、すんなりとは上手くいかなかった。
つゆと若旦那が夫婦になることに、大反対した者たちがいる。
若旦那の両親だった。
若旦那は一人息子の跡継ぎで、百姓の出の娘を嫁にはできないと突っぱねられる。
はい、わかりましたと若旦那はならず、何度も両親を説得するも、頑として許してはくれなかった。
このままではとんだお家騒動になりかねないと困った両親はつゆに暇を告げて、強制的に息子から引き離した。
「じゃあ、どうやって……」
現につゆは、春日屋の内儀におさまっている。
そこまで反対されたのに、果たしてどうやって二人が結ばれたのかが気になるところだ。
「旦那さまは時間を見つけては、私の実家まで会いに来てくださった」
春日屋に暇を出されたつゆは、実家の中野村に戻っていた。
「その
それでも、許してはもらえなかったという。
金で縁を切れとまで、若旦那は両親に迫られていたそうだ。
相変わらず険悪なまま、それでもお腹の子は順調に育ち、やがてつゆは女の子を産んだ。
「旦那さまがね、君をお
私が貴方たちの立派な孫を産んでくれたのに、それでも許してくれないんですかって……
ふふっ、そしたら初孫可愛さに許してもらえたの」
そのとき主人だった義父が息子に家督を譲り、息子は喜左衛門と名乗るようになった。
義父と義母は店を出て、隠居所を作りそこで生活している。
すでにつゆとの
「だからね、お千夜ちゃんの気持ちがよくわかる。
私にできることは少ないけど、私はお千夜ちゃんの味方だから」
優しくて頼りになるお姉さんができたと、千夜は
神田明神でつゆと別れた千夜は、家路に就いていた。
冬野とのことを表立って相談できる相手がいない千夜にとって、つゆはかけがえのない存在である。
約束の山王祭はもうすぐで、浮き足立つ心を抑えられない。
そんな千夜を冷静にしたのは、背後から物音と視線を感じたからだった。
反射的に振り返って見るも、そこには誰の姿もいない。
近道とはいえ、なぜ人通りのない道をきてしまったのかと後悔する。
思い出すのは、忘れかけようとしていた出来事だ。
千夜をおもちゃにしていた男たちが再び千夜を見つけて、家にまで押し入って襲われたときのことである。
また誰かが……
気の
満月屋を目指すよりも、とにかく人通りの多い場所を目指す。
裏路地を抜けて大通りに出たときに、千夜は男とぶつかった。
ごめんなさいと謝ろうとした声は、
「どうした、やけに慌ててるじゃねぇか」
その声で一気に千夜の身体は
黄八丈に黒羽織、十手もちらりと視界に映っている。
顔を上げれば、荒木音十郎の顔が見えた。
「おい、見てこい」
千夜がまだ何も言っていないというのに、音十郎は後ろにいた小者に命じて、千夜のきた路地を調べさせている。
少しして小者が戻ってきて言うには、誰もいなかったという報告だった。
「誰かにつけられている気がきたんですけど……」
「また妙な奴らに狙われてなきゃいいけどよ……俺も警戒しといてやる」
ぽんと音十郎に肩を叩かれて、千夜はやっと笑顔になった。
「ありがとうございます。太一さんとおかやさんには言わないでください。また心配をかけたくないので……」
確証があるなら言うものを、ただの気の所為かもしれないことだけに、千夜は二人にいらぬ心配事をさせたくなかった。
「わかってると思うが、いざってときは二人を頼れよ」
千夜が
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